冬隣の頃に

付き合って初めての春日さんの誕生日のお話です。
春白についてはこちらにまとまっています。
ちなみに春日さんのお誕生日はいつかと言うと、10/21です。

仕事があった日は帰りにスーパーやコンビニに寄って適当に夕食を買い、とりあえず腹を満たすというのが由紀夫の生活サイクルだった。元々そんなに食に興味が強い方でも無いし、今の経済状況では上手いものを食べに行ける訳でもない。何を食べても大して変わらないなら、なるべく安い物を家で一人で食べるのが一番気が楽だった。
 しかし今日はなんだかとても疲れており、家に帰ったらそのまま寝てしまいそうだった。明日が休みならそれでもいいが、ありがたいことに明日も仕事がある。となると、何も食べずに寝てしまうと明日の体力が持たないだろう。そう思った由紀夫は半ば強制的に腹に何かを入れるために、少し裏通りに入ったところにある定食屋ののれんをくぐった。表通りにある華やかな店とは違う年季の入ったその店は、女性客はほとんどみたことがない。今日も少し疲れたような男達が酒を飲みつつ飯をつついていた。
 定員に適当に目についた定食を頼むと、店の角にあるテレビではもうすぐ五十歳に手が届くという大物独身俳優が二十代の一般女性と入籍するというニュースが流れていた。
「羨ましいな~、俺にも若い嫁、来ねぇかなぁ」
「おめぇみたいな二度も嫁に逃げられてるとこに来るわけねぇだろ」
「そりゃそうだ、はははは」
 何が楽しいのか大声で笑い合う中年男性の声を聞きながら、由紀夫の表情は浮かなかった。実は最近、一回り近く年下である彼女の麗蘭が一緒にいても上の空だったり、じっとこちらを見るがいざ目が合うと曖昧に笑うだけだったりすることがあるのだ。
 麗蘭は口数は多い方ではないが隠しごとをするというタイプでもない。何か気になっていることや困りごとでもあるのかと思い職場で何あったかと聞いてみたが、特に大きな変化は何もないという。
 そうか、と言って黙ってしまった由紀夫を見て何か言わないと申し訳ないと思ったのだろうか。「強いて変化があったといえば」と言って話してくれたのは、「本社の人」が代わったという話題だった。
 麗蘭の働く食品工場はほとんどが女性のパート・アルバイトで構成されており、社員はほとんどいないらしい。その中の麗蘭達の部署のまとめ役的な人間が意地の悪い中年男性だったのだが、人事異動だかなんだかでまだ二十代中盤の感じの良い男性に代わり、パートのおばさま達は「あの子、現場のことが全然わかってないわねぇ」と口では言いつつも機嫌がいいらしい。
 ただ、その社員が年上の女性達には気圧されて確認しづらいこともあるのか同世代で話しかけやすい麗蘭に色々と聞いてくることがあるらしく、そういうことをされると女性だけの職場では面倒なことも発生しやすいのでできれば控えてもらいたいと思っている。仕事については頑張ってやってくれる人だから自分で役に立てることがあるなら役には立ちたいのだが、中々難しいのだ……ということをぽそり、ぽそりと麗蘭は語った。
 女社会は大変なんだな、でも麗蘭が職場で信用されてるってことなんだろうな、なんてもっともらしい言葉を返しながらも内心由紀夫は複雑であった。麗蘭はただの雑談のつもりで話してくれているんだろう、とは思っている。でも、もしかしたら。上の空の原因がその男にあるんじゃないか、「仕事のできる、同世代の感じの良い男性」が、麗蘭の心を知らず知らずのうちに占めていってるんではないか、と不安な気持ちもあるのだ。
 なぜなら、好いた女が上の空になっていくのを見るのが、由紀夫にとっては初めてのことではないからだった。学生時代に付き合っていた彼女--有理沙も、ある時から一緒にいても向こうの意識がここになさそうなことが少しずつ増えていって。「まだ大学に慣れないからちょっと疲れてぼーっとしちゃってるのかな。ごめんね、ゆきくんの方がお仕事で大変なのに」なんて言われて真に受けていたら、気が付いたら彼女はすっかり違う世界の男に目が向いてしまっていたのだ。
 別に、有理沙のことを悪く思う気持ちは今もないし、一度そういうことがあったからと言って他の全ての女性にも同じようなことが当てはまると思っている訳でもなかった。しかし由紀夫自身が今の自分に自信が持てていないのもまた、確かだった。
 テレビでは、俳優の結婚にショックを受ける若い女性達のコメントが流れている。でもそれは、その男性に才能や地位や経済力といった魅力があるからだろう。そうでなかったらほとんどの女性は自分と年の離れた男性に惹かれることなんてなく、そして今の由紀夫はそのうちのどれ一つ、持っているとは言いがたかった。
 麗蘭はどうして自分と一緒にいてくれているのだろう。それは付き合ってもうすぐ一年が経とうという今でも由紀夫が思っていることだった。麗蘭と同世代のいい男が現れたら、麗蘭が心惹かれる男が現れたら。麗蘭のために自分は身を引かなければいけないということもわかっていた。だけれども。
 デートが終わって駅で別れるとき、いつも麗蘭は寂しそうな顔をする。由紀夫が「寝る前に、電話する」と言うと名残惜しそうにこくんと頷いて、由紀夫の姿が見えなくなるまでずっと見ていてくれる。そんな麗蘭から、今更どんなにいい男が出てきたとしたって「幸せにしてやってくれよ」なんて言ってあっさり身を引ける気はしなかった。
 でももしも、麗蘭自身から「別れてほしい」と言われてしまったら。きっと自分は強がりながら、それを受け入れるしかないんだろうなと由紀夫は思っていた。
 湯気を立てた定食が目の前に置かれたが、そんなものでは由紀夫の体は温まりそうになかった。

 その次のデートは由紀夫が麗蘭の家に泊まりに行く約束になっていた。少しでも長い間を一緒にいたいから、泊まりに行くときはいつも仕事終わりにそのまま麗蘭の家に行って夕飯を一緒に食べる流れになっており、それは由紀夫にとって何より楽しい時間のはずだったが、今日はなんだか麗蘭の家までの足取りが重く感じられる。
 とは言え「こんばんは。私も帰るのが少し遅くなってしまって、簡単な物しか用意できなかったんですけど」と言って迎えてくれた麗蘭はやっぱりどうしたって可愛いかった。
 簡単な、とは言ったが食卓に並べられた野菜多めのメニューは十分に美味しそうで、いただきますと二人で手を合わせると静かな夕食の時間が始まっていった。二人ともそんなに喋る方ではないのでいつも通りと言えばいつも通りなのだが、もやもやとした気持ちを抱えているからか、なんだかその静かさが今日は妙に気まずく感じられる。せっかく用意してくれたビールも、味があまりわからなかった。
 グラスから顔を上げると麗蘭がちょうどこちらを見ていたが、由紀夫と目が合うと向こうもなんだか少し慌てたように「味、大丈夫ですか」と聞いてきたので咄嗟に「ああ、うん」などと言ってしまい、いつもみたいに「旨いよ」とも言えなくなってしまった。着けっぱなしになっているテレビの音だけが二人の間をすり抜けて行き、そのままお互いに話をすることもなくどのぐらい時間が経ったときだろうか。
 ……こういうことは、年長者であり男である自分が切り出すべきだろう。そう思った由紀夫は、一度息を整えてからゆっくりと麗蘭に話しかけた。
「れい、俺に何か言いたいことがあるんじゃないのか」
「えっ」
 そう言って麗蘭は由紀夫の方を見た。
「別に、そんなこと」
 とは言ったもの、由紀夫がじっと見つめ続けると次第にその目が伏せられていき、口をつぐみながら麗蘭は箸を置いた。しばらく迷うように視線を左右に動かしていたが、やがてぎゅっとめをつむると
「ごめんなさい」
 と苦しそうな表情で頭を下げる。その顔を見て、由紀夫の胸は鉛でも打ち込まれたかのようにずしんと重くなった。
 ここのところの上の空と物言いたげな表情は、別れ話をどう切り出すべきか悩んでいたのだろう。だけど気の優しい麗蘭は自分からはそんなことを言いだせなくて、悩んでいたに違いない。もっと早くこっちから言ってやるべきだったという思いと、どうして踏み込んでしまったんだろうという思いが交錯したが、時はもう進んでしまっていた。
 申し訳ないが、これ以上別れの言葉を聞かされるのはつらすぎる、と思った由紀夫が立ち上がろうとしたときだった。
「お誕生日のプレゼント、どうしても一人じゃ選べそうになくて……本当に、ごめんなさい」
 と麗蘭が続けたものだから、由紀夫は思わず
「……えっ?」
 とだいぶ間の抜けた顔で聞いてしまったのだが、ひたすら頭を下げている麗蘭にはその顔は見えていないようだった。
「バレンタインのときもすごく悩んだんですけど、それでもあれはまだ『バレンタインっぽいもの』っていう縛りがあったのでなんとか選べたんです。でも、お誕生日プレゼントって完全に自由だから春日さんがどういうものを喜んでくれるのかってずっと悩んでて、でも結局何がいいのかわからなくて……。来年は一人で選べるように頑張るので、今年は一緒にプレゼント選びのお買い物に付き合ってもらえたらって思ったんですけど、許してもらえますか……?」
 そう言って不安そうに自分を見つめる麗蘭を由紀夫はしばらく瞬きもせずに見ていたが、やがてはぁーと大きく息を吐き出した。
「ごめんなさい、プレゼントも選べないなんて、いい年して本当に恥ずかしいことですよね」
「いや、別にそれは全然いいんだ、ほんとに、うん」
 由紀夫に落胆されたと勘違いした麗蘭をなだめながら、由紀夫はゆっくりと息を吸って・吐いてを繰り返した。そうして段々と息を整えていくうちに段々と胸の重さと苦しさから解放されていき、麗蘭の描く「一年後」の中には自分がいるんだなという嬉しさがこみ上げてきて、体の中がじわじわとあたたかくなっていくのを感じていた。そう言えばすっかり忘れていたが、来週由紀夫はまた一つ年をとるのだ。
「俺の誕生日、覚えててくれたんだな」
 なんとなく気恥ずかしくなってきてビールを口にしながら由紀夫がそう言うと
「当たり前じゃないですか」
 と言いながら麗蘭も湯飲みのお茶を飲む。
「はぁ、やっと味がします。どんな風にお祝いしたらいいのかなぁって最近ずっとそのことばっかり考えてたから、食事もあんまり味がしなくて。安心したら、なんだかお腹がすいてきちゃいました」
 そう言うと麗蘭は照れたように笑いながら回鍋肉に箸を伸ばした。
「寒くなってきたから冬のお洋服とかもいいのかなと思ってたんですけど、どうですか? 春日さん、背もあるし深めの色が似合いそうだからきっと着映えがするんじゃないかなと思って」
 そう言って微笑む麗蘭を見ていると由紀夫の胸はいっぱいになったが、そこに含まれていたのは喜びの感情だけではなかった。
 こんなに好きになってしまったら。本当に「その時」が来たとして、自分は大人としてきちんとこの子を手放してあげられるんだろうか。そのモヤモヤを打ち消すかのように、由紀夫は残っていたビールを一気に喉の奥へと押し込んだ。苦みの中にも旨みが広がるその液体は、少年の頃には知らない味をしていた。

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