交際後初めてのホワイトデーのお話です。
バレンタインデーのお話はこちら。
春白についてはこちらにまとまっています。
暦の上では三月になったとは言え夜はまだまだ寒い。しかし仕事帰りの由紀夫の首元にはグレーのマフラーが今日も巻かれていて、そこだけはほのかに暖かさに包まれていた。
それはバレンタインデーに麗蘭が贈ってくれたマフラーで、麗蘭が人生で初めて編んだと言うマフラーだった。寒い季節は早く終わってほしいと例年なら思うのだがマフラーを身につけられなくなるのが寂しくて、由紀夫は初めて冬がもっと続けばいいのにと思っていた。
今日はそんな大切な物をくれた麗蘭にホワイトデーのお返しの物を買いたいと思い、由紀夫は帰り道に少し足を延ばして大型ショッピングモールへとやってきていた。学生の頃は地元でよくこういう所へ来ていたが、裏稼業をしていた頃はほとんど足を踏み入れたことがない。「健全な人と空気が漂う場所」には近付くのがためらわれたからだ。
だから麗蘭と付き合うようになって所謂「デートらしいデートコース」の一環として久々にこういう場所に再び出入りするようになったとき、初めはなんだかやたらとこういう場所がキラキラと輝いて見えた。自分のような一度汚れてしまった人間が、こういう場所に澄ました顔で入りこんで行っていいのだろうかと内心複雑な気持ちだったが、「お店をただなんとなくふらふら見て回るのって、すごくデートっぽくってなんだか恥ずかしいですね」と笑って誤魔化そうとする麗蘭が可愛くて、そんな麗蘭のためならいくらだって一緒にウインドウショッピングを付き合おうと思ったのだ。
今日はそんな麗蘭が隣にはおらず不愛想な男が一人でこの明るくて楽し気な空間にいるのはなかなか居心地の悪いものはあったが、そんなことは言っていられない。この前麗蘭が家に来てくれた時、誘っていたのだ。
「ホワイトデー、一緒に夕食でも食べに行かないか。翌日もお互い仕事だし、もし良かったら、だけれども」
と。そうしたら麗蘭が少し俯いてその手を膝の上でいじり始めたので、断りにくくて困っているのかと思っていると
「会えたらいいなって思ってたんです、私も。でも、お仕事だし誘ったら悪いかなって思っていて……だから、嬉しいです」
と言ってはにかんでくれたので、由紀夫は押し倒したくなる衝動を抑えるのが大変だった。麗蘭が「家に来てくれた」とは言えそれは文字通り「家に来た」だけであって、いわゆる身体接触といった面で二人の間に大きな進展は何もなかった。でも多分、麗蘭に対してはここで焦ってはいけないのだ。初めて家に来た時はあからさまに緊張していた麗蘭が最近ようやく少し警戒心を解いてきてくれているのは感じていたので、由紀夫は「急いては事を仕損じる」と何度も頭の中で繰り返し、何とか耐えてきたのだ。
それにしても、一回り近く年下の彼女へのホワイトデーのお返しに何をあげればいいかをここ一ヶ月考えてきた訳だが、由紀夫には結局正解がわからないままだった。恋人になってから初めての贈り物だし何かいい感じの物を贈りたいが、気合を入れ過ぎても麗蘭も気を遣うだろう。そうでなくとも元々遠慮しがちな彼女なのだ。
デートの際に何かヒントになるものでもないかと思っていたのだが、由紀夫が知る限り麗蘭が一番欲しそうにしていた物と言えばテレビの通販番組でやっていた「一人分のお米が美味しく炊ける炊飯器」で、それをあげれば確かに麗蘭が喜ぶだろうとは思ったが由紀夫が初めて麗蘭に贈りたいものはそういうものではない。
思えばここ十五年近く、由紀夫は女性に対して贈り物をしたことがなかった。仕事の都合で上の人間の嫁や店の女達に何かを買ったことはあったが、本気で好きになった女に何かを選ぶのは実に久々のことであった。
貴金属は定番だが多分麗蘭は恐縮してしまって受け取りづらいだろう。洋服……はサイズもイマイチわからないし、なんだか自分の癖がバレてしまうようで気恥ずかしかった。鞄なんてその手の女性が欲しがりそうな有名ブランド物ぐらいしか知らないがおそらく麗蘭はそういう物を欲しがるタイプでもないだろうし、マフラーのお返しとしては高価すぎるだろう。
そんなに気負わず受け取ってもらえて、もらっても困らなそうな物……悩みながら由紀夫がふらふらとモールを歩いていると、少し先にある店舗からいい香りがしてくるのに気が付いた。吸い寄せられるように行ってみるとそこはどうやら自然派を謳ったコスメのお店のようで、化粧品の他にも入浴剤やパックにハンドケア用品など、女性が好きそうな物が店内にセンス良く並べられていた。化粧品は何かこだわりがあるかもしれないが、自分では普段なかなか買わない感じの少し高めのパックやハンドケア用品なら麗蘭も喜んでくれるのではないだろうか。
麗蘭の手は、少しかさついている。アイドル時代から「他のみんなはツヤツヤでぷるっとした手をしてるのに、握手会の時いつも恥ずかしい」とこぼしていた。それは彼女が必死に働いて生きてきた証でもあって由紀夫はそれさえも愛おしいと思っていたのだが、年頃の女の子にしたらやはり潤いに溢れた柔らかそうな手は憧れなのだろう。
多分麗蘭は手を繋ぐのが好きだ。はっきりとそう言われたことはないけれど、いつも麗蘭を見ている由紀夫にはそれがわかっていた。手を繋ぐなんてことをここしばらくしていなかったからか由紀夫にとってそれはキスをしたり体を繋ぐ事よりもむしろなんだか恥ずかしかったが、手を重ねた時に麗蘭が恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑むのを見ているとそれだけで幸せな気持ちになれた。
「何かお探しですか?」
店内をうろつく店に不釣り合いな男を見かねてか、麗蘭より少し年上と思われる女性の店員が由紀夫に話しかけてきた。申し出を断りかけて、ここで照れている場合では無いと思い直し素直にプロの知恵に頼ることにする。
「あー、ホワイトデーに何かハンドクリームでも贈れたらと思ってるんだが」
「いいですね。お相手の方、普段よく付けてらっしゃる香りとかお好きな香りってありますか」
「香り?」
麗蘭はいつもうっすらと化粧はしているが、おそらく香水の類は付けていないだろう。抱きしめた時にふんわりと感じるのは、おそらくシャンプーや麗蘭自身の香りだと思われた。
「……わからないけれど、なんだか良い匂いはする」
思わずそう言葉にしてしまってからなんだか気持ちの悪いことを言ってしまったと思ったが、店員はプロらしく笑顔のまま言葉を続けてくれた。
「であれば、よろしければ相手の方の年齢や雰囲気を伺ってもよろしいですか?」
「年齢、雰囲気……ハタチちょっとで、だけど落ち着いた感じで……でも年齢相応に幼いところもあるし、ちょっとした仕草が可愛らしくて……」
よく考えたら、また気持ち悪い感じになってしまっているかもしれない。そう思って由紀夫が隣を見ると、店員はくすくすと笑いながら
「きっとお客様が選んで下さった物ならお相手の方、何でも喜んで下さるんじゃないでしょうか。なんて、それじゃぁ参考になりませんよね。よろしければこちらの桜の香りの物はいかがですか? 季節限定で、パッケージデザインにもピンクが入っていて可愛らしいですよ」
と言って、由紀夫の手の甲にクリームを少し乗せてくれた。指で触ると薄桃色のそれは手の上をするりと伸びていき、後からふんわりと春の香りがした。
「それじゃあ、これを。ああ、そこにあるハンドタオルも一緒にして下さい」
「ありがとうございます。支払いとラッピングはあちらのレジで承ります」
そう言って進む店員の後をついて行きながら由紀夫は、早くもこれを渡せる日が待ち遠しくなっていた。
そしてホワイトデー当日、由紀夫は仕事を終えると急いで家に車を取りに帰った。最近はほとんど乗れる時間を作れないが、ドライブが唯一の趣味と言ってもいい由紀夫にとって車は大事な相棒である。
ショッパーに入ったプレゼントを一回り大きなクラフトの紙袋に入れて後部座席に乗せ、由紀夫は麗蘭の家の近くのコンビニを目指す。麗蘭は未だに「私、本当に古いアパートに住んでいるので恥ずかしくて」と言って自宅を教えてはくれないのだ。それは体のいい断り文句で本当は自分に自宅を教えるのが嫌なのではないか? とつい疑ってしまいそうになるのだが、その度に「いやいや麗蘭はそんな子ではない」と自分を励ます由紀夫であった。
コンビニに着くと、既に麗蘭は雑誌コーナーで立ち読みをしている所だった。由紀夫に気付くとニコリと笑って急いで店を出てくるその姿がいじらしくて、由紀夫は思わず緩む口元を隠すために左手を口に当てた。
「こんばんは。お仕事の後なのに迎えに来てもらってしまってすみません」
「いや、車の方が気が楽で好きだからいいんだ」
それに麗蘭と二人きりの空間でいられるし。そう思いながらコンビニの駐車場を出て、高速の入り口に向かう。二人とも口数が多い方では無いし、車内では基本的に何も話さないことが多い。初めのうちはお互い何となく「何か話さないと気まずい」という空気もあった気がするが、最近は車の中では何も話さずにただ一緒にいても気にならないようになってきている気がしていた。
カーステから流れるのは由紀夫が若い頃に好きだった曲ばかりで麗蘭にとっては「古い曲」なんだろうけれども、何度も聞いているうちに覚えてくれたのだろうか、気がつけば麗蘭がそれを小さな声で口遊んでくれていることがあって、その落ち着いた声を聞きながらドライブをするのが由紀夫にとっては至福のひと時だった。
加えて、夜の首都高をドライブするのは由紀夫にとって最も幸せな時間の一つだ。自然の美しい場所を走るのも気持ちが良かったが、ネオンという人々がそこに生きている証の中を走っていくのもそれはそれで気分が良かった。
「わぁ、あれって東京タワーですか?」
東京に出てきたけど、まだ行ったことないなぁ、と言いながら麗蘭が窓の外を覗く。麗蘭に見せてあげたいものが、麗蘭と一緒に行ってみたい場所がたくさんある。二人でこれから、少しずつ色々な体験ができたらいいなと思いながら由紀夫は湾に浮かぶウォーターフロントを目指した。たまにはこういう「ザ・デートスポット」のような場所もいいだろうと思ったのだ。
ショッピングモールの駐車場に車を止め二人でデッキを歩いていると、運よく窓際の席が空いていたイタリアンレストランを見つけたのでそこに入る。湾の夜景が一望出来て良い席だったが、それよりも麗蘭は店の雰囲気に落ち着かない様子だった。
「すみません、こういうおシャレなお店ってテレビでしか見たことがなくて……私なんかが入って良かったんでしょうか」
「むしろ若くて可愛い子に入ってもらえて店だって嬉しいだろ。ほら、れい。何がいい? いくつか頼んで分けてもいいしな」
「わ、私そんなにたくさん食べられないです」
そんな会話をしているうちに緊張もほぐれてきたのか麗蘭の顔が少しずつ緩んでいくのを見て由紀夫も嬉しくなった。本当はもっと旨いものをたくさん食べさせてやりたかったが、そうもできない自分の甲斐性の無さが情けなかった。
由紀夫は車で来ていたし麗蘭も進んで酒を飲む方では無かったからノンアルコールのディナーだったが、それでも由紀夫にとっては楽しい時間だった。食べる前にいただきますと小さく手を合わせ、好き嫌いなくもぐもぐと麗蘭が食べているのを見ているだけで腹が膨れていく気さえした。
しかしどのタイミングでプレゼントを渡した物だろう。麗蘭だって今日何かをもらえるであろうことは、そしてそれはそこのクラフトの袋に入っているであろうことはわかっているだろうからどのタイミングで切り出しても良かったのだが、なんとなくずるずると言いだせないまま麗蘭が頼んだ(と言うよりは由紀夫が頼ませた)ジェラートもそろそろ皿から消えかかっている。ええい、と思って由紀夫は珈琲のカップから手を離しクラフトの袋に手を伸ばすと、中から可愛らしいショッパーに入ったプレゼントを取り出し
「れい、これ、ホワイトデーのやつ」
と言って麗蘭に渡す。俺は男子中学生なのか? というぐらい気の利かない物言いに由紀夫は心の中で頭を抱えたが麗蘭はそんなことは気にならなかったようで
「わぁ……開けてもいいですか?」
と聞いてきたので由紀夫はあぁ、と頷いた。銀色のシールで止められていたショッパーを開くと、中から可愛らしくラッピングされたハンドタオルとハンドクリームが出てくる。それを持ったまま麗蘭がじっと黙ってしまったので由紀夫が思わず「いや、麗蘭がどんなものがいいかわからないからその、俺が勝手に選んでしまったものなんだが」と言い訳のように言葉を続けたが麗蘭にはその言葉は届いていないようで、手元のプレゼントをじっと見つめ続けていた。この可愛らしいものを、由紀夫が自分のために女性客が多いであろう店に買いに行ってくれたのかと思うとそれだけで嬉しくて、そしてなんだか恥ずかしくて、プレゼントを持つ指先にぎゅっと力が籠る。
「嬉しいです……ありがとうございます。使うのがもったいないですね」
「いや、そのぐらいまたプレゼントするし、せっかくだから使ってくれよ」
「だって、春日さんが選んでくれたのが嬉しくて……ありがとうございます。大切にしますね」
そう言って麗蘭はプレゼントを撫でると、大切そうにショッパーにしまい直した。多分これからも麗蘭に楽な生活をさせてあげることはできないかもしれない。それでも、この笑顔は絶対に一番近くで大切にしていくんだ。由紀夫は改めてそう思うと己の拳を握り直した。
店を出て手洗いを済ませてから再びデッキに出ると店の中よりさらに鮮明に夜景が広がっており、麗蘭は少し興奮したようにそれを見つめていた。
「正直なんで世の中の人がわざわざ夜景を観に行くんだろうって思ってたんですけど、こんなに綺麗だからなんですね。サイリウムもそうですけど、光の灯った場所ってそこに命があるんだなってわかって、なんだか愛おしいですよね」
アイドル時代のことも思い出しているんだろうか。そう言って遠くを見つめる麗蘭の横顔が綺麗で、由紀夫はそっとその手を握った。その手はいつもより少ししっとりと潤っていて、思わず由紀夫が見つめていると
「もったいないですけどちょっとだけ使ってみたんです。わかりますか?」
と言って麗蘭が反対の手に持ったプレゼントの袋を小さく振って見せたので由紀夫は
「いや、わからん」
と言って握った手を顔の高さまで上げると爪の先に口付けた。麗蘭が赤くなったまま何も言えないのをいいことにそのまま手の甲に、そして手首に順に口付けその匂いを嗅ぐと
「確かに桜とれいの、いい香りがする」
と言って笑って見せた。
「な、もう……知りません!」
そう言って足早に駐車場に向かう麗蘭の髪の隙間から覗くうなじが綺麗だな、と思いながら由紀夫はその後ろをゆったりとした足取りで追いかけた。
本当は帰りの高速脇にあるホテルにそのまま連れ込んでしまいたいところだったがそこはぐっと我慢して、いつものコンビニまで車を走らせる。寂しいけれども二人の現状ではそれ以外の選択肢は選びようが無かった。
町中のコンビニにしては少し広めの駐車場の隅の方に車を止めると
「遅くなってしまって悪かった。家に帰ったら必ず連絡をくれよ」
と伝える。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
と麗蘭は笑ったが、由紀夫があまりに心配そうな顔をしているので
「なるべく早歩きで帰りますし、ちゃんと連絡もしますから」
と言うと由紀夫はしぶしぶ頷いた。その顔がなんだか飼い主に叱られた子犬のようで可愛くて、思わず頭に手を伸ばしかけたところで麗蘭は慌ててその手を引っ込め、誤魔化すように笑った。
「プレゼント、ありがとうございました。夕飯まで奢ってもらってしまってすみません」
段々と近付いてくる由紀夫の気配に麗蘭の声はどんどんと小さくなっていき、最後はその薄い唇の上に由紀夫のそれが重なり音にならなかった。最近ではなんとなく口付けされる気配のようなものはわかるようになってきたが、だからといってそれに慣れるかと言えば話は全く別で。唇を離してからもじっと見つめてくる由紀夫の目を麗蘭が思わず両手で塞ぐと、二人の間にほのかに桜の香りが漂った。
「あ、あの、春日さん。このまま聞いてほしいんですけど」
耳と匂いだけで感じる麗蘭の声はいつもよりさらに可愛らしく感じるなと思いながら由紀夫が黙っていると麗蘭はしばらく言い淀んでいたが、やがてふぅ、と一度深呼吸をしてから囁くように言った。
「今度良かったらうちにご飯、食べに来て下さい。今日のお礼になるような素敵なものは作れないですし、本当に古くて何も無いアパートで恥ずかしいんですけど」
急に告げられた言葉に由紀夫が驚きと嬉しさで固まっているうちに麗蘭は逃げるように「それじゃあ」と言って車を降りると夜の小道へと消えていってしまったが、由紀夫はしばらく呆然と日配のトラックが荷物の積み下ろしをするのを見つめることしかできなかった。もしかして、今のあれは幻聴だったんだろうか。思わずそう疑いながらもコンビニでコーヒーを買い車内で一服しているとスマホが震え、麗蘭からメッセージが届く。
「家に着きました。プレゼント、ありがとうございました」
可愛らしくデコレーションされたハンドクリームの写真とメッセージに安心していると、しばらくして再びスマホが震える。何の気なしにそれを開いた由紀夫は次の瞬間思わず思いきり煙を吸い込んでしまい、盛大に車内でむせる事になってしまった。膝の上に残されたスマホには、麗蘭からの
「春日さんの好きなメニュー、教えてくださいね」
というメッセージと共に、由紀夫の贈ったハンドタオルの上に空色と薄紅の箸置きがちょこんと乗せられた写真が添えられていた。
