私はTwitterで自分のツイートのRT(直後のツイートを含む)やいいね先はもちろん、人のツイートのそういうのも割とよく見ている方なんじゃないかと思う。
特に、自分の好きな絵描きさんの、イラストや漫画のついたツイートのRT・いいね先は、結構な割合で見ている。どういう人が、どういう感情で反応しているのかなぁ、というのを見るのが単純に楽しいのだと思う。
「反応した人々」のたくさんのアイコンを見ながら、それぞれの人達がこのイラストや漫画を見るのにどのぐらいの時間をかけたのだろう、と思う。
「Twitterのイラストは見てもらえて3秒」と言っていた人がいたけれど、本当にそれぐらい、もしくはもっと短い人も多いんじゃなかろうか。正直私もそれぐらいのことが多いと思う。
でも私は、例え簡単そうに見える絵や漫画であったとしても、実際にはすごく手間暇がかかっていることが多いのを知っている。それをこんなにインスタントに「消費」してしまっていいのだろうか、と思うことが割と良くある。「そういうもんでいいんです」と言っているプロの方もいるぐらいだから読み手は気負わずに好きなスタイルで作品と向き合っていいんだろうけど、なんとなく、そういう消費のしかたばっかりでいいのかなぁ…と思ってしまうことがある。
昔と比べたところで仕方がないのだけれども、私自身、幼かった頃は即売会で買った数冊の本を今でもフリートークの内容まで覚えているぐらい繰り返し読みこんだのに、今では山のように本は買うけれども一度しか読んでない本もたくさんあるし。
好きな人のHPをチェックしに行って何回も何回も同じ絵や小説を楽しんだのに、次から次へと流れてくるpixiv新着をただただ口を開けて消費しているだけみたいになってしまっているところもあるし。
もちろん便利になって助かっている部分もたくさんあるし、創作の発表の敷居が下がることはすごくいい事だとは思うのだけれども、その一方で、なんだかなぁと思う気持ちも消えない。
書き手の人って、「うわー、そんなとこまで?」ってなぐらい、一つの作品に何かを込めることがある。
それを、「わ、なんか好き~ ポチー」で消費してしまっていいものなんだろうか。
もちろん一つ一つの作品に一々真剣に向き合っていたら神経がすり減ってしまうし、雑談のように流れて行っていいものもたくさんあるのだけれど、「全てがそうなったら嫌だなぁ」みたいな自分の気持ちは、それはそれとして持っていたいなと思う。
これは単なる幻想であることはわかっているのだけれど、同人誌はお金をかけて手に取ってもらえる分、大事にしてもらえる可能性が上がるかなぁ、という期待を込めて私は物語を「物理」にしているのかもしれない。
pixivにだって私の大切な物語はたくさんある。紙でしか創作が伝えられなかった時代から生きている人間の、感傷だということもわかっている。
でも、本と言う形が好きだし、できるかぎり人々の創作を「消費」、したくないんだよなぁ。しちゃうんだけどさぁ。


