春白 ひとめあなたに

交際後初めてのバレンタインのお話です。
春白についてはこちらにまとまっています。

「バレンタイン直前!今からでも間に合う、おすすめチョコレート特集!!」
 帰宅後になんとなくつけたテレビからは、華やかで可愛らしい音楽と共に女性レポーター達がデパ地下で買えるブランド物のチョコレートを紹介する映像が流れていた。思わずチャンネルを変えようかとも思ったが他に見たい番組がある訳でも無かったしチャンネルを変えるのすら面倒だったので、コンビニの袋から買ってきた弁当と第三のビールを取り出すとそのまま無言でそれを口の中へと運んだ。
 画面の中では様々な趣向を凝らしたチョコレートに女性達がうっとりしている。
(別にこんな高いもんじゃなくて全然いいんだがな)
 そう思いながら、由紀夫は思わずため息をついた。あと数日でバレンタインだが、麗蘭との次のデートは14日…の数日後だ。学生同士のカップルのように何もせずとも毎日会えるという訳でも無いし、お互い仕事をしないと生活できない身である。しかも由紀夫は完全な肉体労働者だったし麗蘭も立ち仕事をしていたのでお互いの体のことを考えて仕事のある日は翌日が休みでない限り夜に会うということはしていなかった。
 だからまぁ、バレンタイン当日に会えないのは仕方がないと言えば仕方がないことなのだ。世の当日会えないカップル達だって、その後のデートの際に少し遅めのバレンタインということで彼女がプレゼントを渡したりするというのはよくあることだろう。由紀夫だって、そう思えていれば何もため息までついたりはしていない。
 コンビニの味の濃すぎる唐揚げを食べながら、由紀夫はこの前麗蘭とデートした時のことを思い出していた。
「春日さんて、甘いものってあんまり得意じゃないですよね?」
 映画を見た帰り道、ターミナル駅の中を二人で歩いている時にふと麗蘭が聞いてきたのだ。
 唐突になんだろうとは思ったものの、何の気なしに
「まぁそうだな。食べれない訳じゃないが自分から食べることはほぼないかな」
 と答えてから、由紀夫はそのすぐ近くでバレンタインの催事をやっており麗蘭の視線がそちらを見ていたことに気がついたのだ。
「……ですよね」
 そう言ったきり麗蘭は黙ってしまったのだが、その少し困ったような横顔に由紀夫は(もしかして、「なら春日さんにはバレンタインチョコあげても喜んでもらえなさそうだし、無しでいいか」とか思われたんじゃないだろうか)と思って焦っていたのだ。
 確かに由紀夫は甘いものは得意でも好きでもなかった。別に、チョコレートが食べたいなんて思う訳でもなかった。しかし「麗蘭からのバレンタインチョコレート」となれば話は別である。そんなもの、絶対欲しいに決まっていた。しかし今更「まぁ、たまにはチョコが食べたくなる気分の時もあるけどな」なんて言うことは、由紀夫にとっては格好悪くてできないことだった。10歳以上も年下の彼女からのバレンタインの贈り物がどうしても欲しいだなんて、例えそれが事実だとしても自分の口からは言えなかった。なんであの時何も考えずにあんなことを言ってしまったんだろう…と思っても時すでに遅し、全ては後の祭りであった。
 麗蘭からバレンタインのチョコレート自体は、既にもらったことがあると言えばもらったことがあった。でもあれはアイドル時代の麗蘭から、ファンへの配布用チョコが余ったから義理でもらったというだけのものであって、由紀夫が欲しいのは「彼女としての麗蘭から、彼氏としての自分への贈り物」なのだ。そして、周りからは古臭い男だと笑われるかもしれないが、由紀夫は「彼女の手作り」に弱い男であった。今時小学生でも既製品の綺麗なチョコレートの方が喜ぶのかもしれないが理想を言えば、彼女が自分のためだけに作ってくれたチョコレートが由紀夫は欲しかった。
自分が今時のスイーツ男子とやらだったらこんなに悩まなくて良かったのかとは思ったが、おそらくそうなるにはあと3回は生まれ変わらなければならないだろう。今さらどうにもなるまい、と思いながら由紀夫は残っていたビールを飲み終えるとぐしゃりと缶を潰した。

 仕事終わりの作業詰所は冬場とは言え男達の汗と泥の匂いで溢れかえっており、お世辞にも長居したいとは言えない場所であった。とは言え、プレハブでは無い着替えの場があるだけここの現場は由紀夫にはありがたいものだった。
 土木作業の仕事でさえ今の時代は由紀夫のような立場の人間は雇ってもらいにくくなっており、もっと条件の悪い現場はたくさんあった。ここで少し長く働かせてもらえるとありがたいんだがなぁとは思ったが、この年までこの仕事が未経験の人間をどれだけおいてもらえるかは由紀夫のやる気と現場の景気次第と言ったところだろう。とりあえず由紀夫は自分のやれることをやるしかなかった。
「へへー、俺、今日これから彼女の家に行くんですよ」
 現場では一番年下の、とは言え職歴的には由紀夫より先輩に当たる、まだ二十歳前だという少年が誰に聞かれてもいないのに嬉しそうにそう言いながら汗ふきシートで身体を拭いている。周囲の男性陣はまたかという感じで相手にしない中で由紀夫だけがそっちを見ていたのか、少年は由紀夫に向かってニカっと笑うと言葉を続けた。
「明日も仕事で早いから無理って言ってんのに、『今日来てくれなきゃチョコあげないからね!』って駄々こねて。別に今度会う時でいいじゃんって言ったんですけどそれ以上機嫌悪くされても面倒だし、しょうがないからこれから行くんですけどね」
 そんな風には言っているがどう見ても顔は嬉しそうで、由紀夫はただただ羨ましかった。
「おい、うるせぇこと言ってねぇで早く帰れ!」
 そう周りからやじ飛ばされながら、少年はヘラヘラとした顔のまま詰所を出て行った。残った既婚男性陣からは「嫁は息子にはいいチョコ買うのに俺には安いのしかくれない」だの「若い俳優に熱上げてそれにはプレゼント送るくせに俺には何にも無しだ」なんて声が聞こえてきたが、好きな相手から当日に貰えるだけ、一緒に過ごせるだけいいじゃないかと由紀夫は思った。由紀夫達はお互いの家に行ったことすら、由紀夫に至っては麗蘭の家の場所すらまだ知らないのだ。
 いや、正確に言えば付き合う前に麗蘭が由紀夫の家に来たことはあったが、あれは色々あって「由紀夫が車の鍵を取るために家に入ったのを、麗蘭が玄関の外で待っていた」だけであって、いわゆる「女性が男性の家に行った」うちには入らないだろう。
 一人暮らし同士の成人男女が付き合って二ヶ月経ってもそんなペースだというのを人から聞いたとしたら、何をまどろっこしいことをしているんだと由紀夫自身そう思うだろう。しかし麗蘭は誰かと付き合うのが初めてで、キスはおろかアイドルの仕事以外では男性と手を繋いだこともなかったようだった。
 由紀夫としてはできたらその辺りはトントンと事を進めて早く麗蘭に触れたいとは思っていたものの、今までの反応をみる限りおそらく麗蘭はゆっくりと事を進めていった方がいいタイプなんだろうなということはわかっていたし、女の子にとって初めてというものは大事なものであるということは一応わかってはいるつもりだったので、これでも一応紳士的に頑張っているつもりではいるのだ。
 それに実際そういう清い付き合いも、案外悪くないと思っている自分もいた。手が触れただけで恥ずかしそうにはにかむ彼女を見ていると、30を過ぎた自分までまだ誰とも付き合ったことのない中学生の頃に戻ったような気持ちになってドキドキしてしまうのがなんだかくすぐったかったし、こんな時期も今だけだしなぁなんて思ったりもしていた。
 とは言え、やはりバレンタインに好きな人と一緒に過ごせるのは羨ましいの一言だった。別にキスがしたいだのその先の色々がしたいだなんて贅沢は言わない。ただ当日に会って、麗蘭からのチョコレートをもらえればそれで良かった。もしも麗蘭に「今日はどうしても会いに来てほしいです」なんて言われたら、例えどんなに疲れていたって明日の集合が鬼のように早くたって絶対に会いに行ったのにと思いつつ、由紀夫は何の連絡も入っていないスマホを恨めしく眺めながら一人寂しく家路についた。途中スーパーに寄って発泡酒と値引きされた適当な弁当をレジへ持っていくと、すぐ傍でバレンタインのチョコレートが並んでいて思わず舌打ちをする。なんで彼女がいなかったここ十年より虚しい気持ちで今日を過ごさなけりゃいけないんだと思いながらスーパーを出ると、早足でアパートへと向かった。安いジャンパーは風を防ぐには十分とは言えず、首元に吹き込む冷たい北風がじわじわと体温を奪っていった。

 家に帰ると弁当をローテーブルに置き、発泡酒を開けながらエアコンのスイッチを入れる。弁当を食べてしまってからシャワーを浴びようかと思っていたが頭の中にあるモヤモヤを先にどうにかしたくて、発泡酒を飲み終えるとその足で浴室へと向かった。本当は湯に入った方が温まるのだろうが面倒で、一人暮らしを始めてから家で湯に浸かったことなどほとんどなかった。服を脱ぎかけて、もう一度スマホを確認したがそこには何の通知もない。今日何度目かわからない溜息をつきながら、由紀夫は高めの温度でシャワーを浴びた。
 電話もメッセージも、するのは大抵由紀夫からだった。送ればきちんと返してくれるし電話をかけても嫌そうにされたこともないが、たまには麗蘭からもしてほしいと思わない訳でも無かった。
 それに、本当は毎日だって麗蘭の声が聴きたいのだ。1日1度と言わず、朝晩のおはようとお休みは言いたいし聞かせてほしい。だけれどそんなに連絡してしまっては「いい年していっぱい電話かけてきて、この人キモいな……」と引かれてしまうのではないかと思い、頑張って2日に1度、いや1.5日に1度に抑えているのだ。
 その法則で言えば、今日は「電話はしない日」であった。でもやっぱり今日は、バレンタインの今日はどうしても麗蘭の声が聞きたい。そう思った由紀夫はいつもよりさらに早々とシャワーを終えると乱雑に髪と体を拭き、大してあたたかくもないスウェットを身に付けた。この時間ならまだそう遅くも無いし、寝るのが早い麗蘭にも迷惑にはならないだろう。そう思いながら麗蘭への通話ボタンをタップすると、コール音がほぼならないうちに向こうが電話を取ったのがわかった。早く声が聞きたいと思っていたとは言え流石にまだ心の準備ができていなかった由紀夫がとりあえず
「れい?」
 と呼びかけると、向こうからも由紀夫以上に驚いたような声で
「は、はい。ええと、春日さんこんばんは」
 という戸惑ったような返事が返って来た。たったそれだけのことでも、麗蘭が自分を呼んでくれたと言うだけでも、由紀夫にとっては嬉しいことだった。
「今、少し話しても大丈夫か」
「大丈夫……ええと、あの、はい、大丈夫です」
 言葉の上では麗蘭はそうは言ったものの、なんとなく大丈夫ではないのかなという気配を由紀夫は電話の向こうから感じた。それに、どこかに音声が反響しているのか麗蘭の声が少し時差のある二重音声のように届いて来ている。
 もしかして、麗蘭も風呂にでも入っている所だったんだろうか。そう思って由紀夫が「少ししてからかけなおそうか」と言おうとした時だった。アパートの通路からくしゃみの音がしたかと思うと、同じようなくしゃみの音が電話の向こうから聞こえてきたのだ。まさかと思って由紀夫が玄関を開けると、扉の脇には麗蘭が立っていた。切れ長の瞳は大きく見開き、驚きすぎて声も出ないのか何も言わずにその場に立ち尽くしている。
「れい」
 そう言ってサンダルをつっかけた由紀夫がその手を掴もうとすると麗蘭は何かに弾かれたように後ずさり、顔を赤らめながらその目を伏せた。
「こ、こんな時間に急に来てしまったりしてごめんなさい。でもあのこれ、どうしても今日渡したくなってしまって……あの、本当にごめんなさい、私、帰ります」
 そう言って麗蘭は顔を伏せたまま持っていた紙袋を由紀夫に渡すと逃げるようにその場を立ち去ろうとしたので
「ちょ、れい、待ってくれ」
 と言って由紀夫は慌てて、しかし今度こそその手を掴んだ。もしかしたら、ここまで来たもののしばらくどうするか悩んでいたのだろうか。その手はいつも以上に冷たく冷え切っていた。
 とりあえず抵抗せずに麗蘭がその場にいてくれるのを確認してから由紀夫がもう片方の手を使って袋の中身を取り出すと、そこにはチョコレート……ではなく封筒に入ったカードと、不織布に紺のリボンでラッピングされた柔らかい物が入っていた。思わず唾を飲みこみながらリボンを解くと、その中には濃いグレーのマフラーが入っている。おそらく編み目の微妙な不ぞろい具合から察するに、麗蘭の手編みだろう。
「れい、これ……」
 そう言ったものの、由紀夫は次の言葉を続けることができなかった。普段、自分からは連絡をくれない麗蘭が。恥ずかしがってあまり気持ちを表してくれる事のない麗蘭がわざわざバレンタインの当日に会いに来てくれただけでも嬉しいのに。チョコレートどころの手間ではないまさかこんな物を用意してくれていただなんて、これは自分にとってあまりに都合がよすぎる夢では無いだろうか。そう思ったが、手の中にある麗蘭の感触も、自分の頬がじんわりと赤くなっていく感触も、これが現実であることを由紀夫に伝えていた。しかし、沈黙を何か違う意味で受け取ったのだろうか。
「……っごめんなさい、やっぱり今度会う時までに私、別の何かちゃんとしたものを」
 耐え切れなくなったように麗蘭がそう言って泣きそうになりながらマフラー取り返そうとしたので、由紀夫はその身体を玄関に引き入れるとぎゅっと抱きしめた。麗蘭の体が緊張するのがわかったが、伝われ、伝われ、と思いながらもう一度抱きしめる。
「これ以上の物なんて、ないだろ」
 絞り出すみたいに出した声は、なぜかこちらも泣きそうに震えてた。
「すごく……なんて言うかその、嬉しい。ありがとう、れい」
 多分きっと情けない顔をしていそうだったから見られたくなくて、そのままじっと細い身体を抱きしめ続けた。
 麗蘭だって毎日仕事で忙しいだろうに、その合間の時間を自分のために使ってくれていたことが嬉しかった。言葉で気持ちを伝えるのは苦手だという彼女が、こういう形で自分に好意を伝えてくれようとしたことが嬉しかった。離れてる時間に相手のことを考えてるのが自分だけじゃなかったんだなと思えて、嬉しかった。とにかく、由紀夫にとっては嬉しいしかなかった。
「良かった……」
 しばらくして、麗蘭がそう漏らすように言ってその手をそっと背中に添えてくれたとき、由紀夫の頭にまっさきに浮かんだのは(帰したくない)の一言だった。しかし麗蘭がそういう気持ちで今日家に来た訳ではないことはわかっていたし、そうなると残念ではあったがこれ以上ハグを続けるのはお互いのために良くないと判断し、由紀夫は泣く泣くその腕を緩めた。
「遅いのにありがとな。駅まで送るからちょっと待っててくれ」
 そう言って由紀夫はスウェットの下だけをズボンに履き替えるとジャンパーを羽織り、もらったばかりマフラーを身に付けた。
「あのそれ、恥ずかしいので今日はしなくても……」
 と言って麗蘭が取ろうとしたが、
「これはもう俺の物だから俺がしたい時にするんだ」
 と言ってニヤリと笑うと、由紀夫は一人さっさと玄関の外に出てしまった。そうすると麗蘭も出ない訳にはいかなくて、二人はそのまま黙って駅に向かって歩き始めた。
 いつもと同じ道なのに、由紀夫にはなぜかその道がいつもより明るく輝いているように見えた。隣りを歩く麗蘭を見ると、由紀夫の首元を見て困ったような、恥ずかしそうな顔をしている。思わずその頭を撫で、冷たくなった手を取ると、暗闇の中でも彼女の横顔が少しだけ赤らむのが由紀夫にはわかった。

 幸せな時間と言うのはどうしてすぐに過ぎてしまうのだろうか。いつもよりも駅に着くのがずいぶん早い気がした。名残惜しいのは麗蘭も一緒なのかつないだ手をぎゅっと握っていたが、やがて諦めたように息を吐くと
「急に来てしまってすみませんでした。でも、会えて嬉しかったです」
 と言って由紀夫を見つめた。
「こっちこそ、明日も仕事なのにありがとな」
 そう言って由紀夫が最後にもう一度手を握ると麗蘭は恥ずかしそうに頷いてから手を離し、改札に向かった。その姿が見えなくなるまで見送ろうと思い由紀夫はその後ろ姿を見ていたが、やがてくるりとスカートを翻して麗蘭が戻ってきたので思わず由紀夫は声をかける。
「れい、どうした」
「あの」
 そう言うと、麗蘭は聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、だけど確かにこう聞いた。
「今日、寝る前におやすみなさいの電話をしてもいいですか?」
 恥ずかしそうに目を合わせずにそういう彼女に、気付いた時には由紀夫は麗蘭の口元に唇を落としていた。
「か、春日さん?ここ駅ですよ!?」
 慌ててその身を押し返そうとする麗蘭の手を握り、由紀夫はそのまま言葉を続ける。

「今度のデート、外じゃなくてうちに来ないか。も少しちゃんと、掃除しとくから」
 そう言ってから手を離すと、麗蘭は赤くなってぼうっとしたような顔をしながら
「……考えて、おきます」
 と言うと、少しふらふらとした足取りで改札を抜けていった。
「電話、待ってる」
 由紀夫がそう声をかけると振り返り、こくりと頷いてからエスカレーターに乗る。大丈夫だろうかと思って見ていると、由紀夫が見えなくなるあたりで振り返って小さく手を振り、そのままホームへと上がっていった。麗蘭の去ったそこをしばらく眺めてから、由紀夫は駅を後にした。
 寒いはずの帰り道も、なぜだかちっとも寒くなかった。麗蘭から電話がかかってくる、そう思うだけで驚くほどに心が躍った。
 そう言えばマフラーと一緒に入っていたカードには何が書いてあるんだろうと思いながら由紀夫は冬の夜道を歩いて行った。数時間前とはまるで違う風景がそこには広がっていた。

「バレンタイン直前!今からでも間に合う、おすすめチョコレート特集!!」
 夕飯後の片づけ後に何となくつけたテレビから、華やかで可愛らしい音楽と共に女性レポーター達がデパ地下で買えるブランド物のチョコレートを紹介する映像が流れてくる。素敵だな、美味しそうだなと思うよりも先に高そうだなぁと思ってしまう自分が嫌だなと思いながら、麗蘭は湯飲みに入れた緑茶を一人すすった。
 麗蘭にとっては人生で初めての恋人と迎えるバレンタインであったが、由紀夫との次のデートは14日の数日後だ。14日当日に会いたいと思わない訳でも無かったが、麗蘭も立ち仕事をしていたし由紀夫は肉体労働をしている。平日の夜にデートをすると翌日の仕事に疲れを残してしまうかもしれないと思うと、麗蘭にはそんな我儘は言えなかった。
 それにそもそも、由紀夫のような大人の男性にとってはバレンタインなんて大した行事ではないんだろうなと麗蘭は思っていた。今までにつきあってきた恋人とだって何度も過ごしたことがるだろうし、おそらく学生時代には複数の女の子からチョコレートをもらった経験だってあるだろう。誰とも付き合ったことがない中卒の麗蘭とはバレンタインにかける思い入れが違うだろうと思っていたのだ。
 由紀夫がこれまでにどんな女の人と付き合ってきたんだろう、というのは幾度となく考えてきた事だった。相手が例えどんな女の人だったとしても自分の方が素敵だと言える自信もなかったし、なるべく気にしないでいようとは思ってきた。それでも、同じバレンタインという行事を迎えるとなれば、どうしたってこれまでの恋人達と比べて自分は大したことができないのだろうなと思うと、麗蘭の心はいささか、いやだいぶ不安であった。
 不安と言えば今編んでいるこれだってそうだ。手元から床にまで伸びるマフラーを見ながら麗蘭は溜息をついた。由紀夫が甘いものが得意でないのは知っていたから何か別の物を用意した方がいいかと思い、毎日現場に行くのに寒さが堪えると言っているのを思い出してマフラーでもあげようかと編み始めたものの、本とネット動画を見ながらの独学だったので果たして上手く編めているのか自分ではイマイチよくわからなかったし、聞ける相手もいない。
 やっぱり何か食べ物も添えた方がいいのかなと思ったが高いチョコレートなんて買ったことが無くてどれを選べばいいかわからなかったし、この前のデートの時の反応を思い出すと甘いものは本当に好きじゃないみたいだったし。そして麗蘭にはチョコレートの代わりになるようなバレンタインの食べ物なんてレパートリーは思いつかなかったし。
 それに実のところ、手芸屋に行ったらせっかくならいいものをあげたくなってしまい、毛糸代だけで考えていた予算をだいぶオーバーしてしまったのだ。もともと少ない生活費、そこからさらにプレゼント代を捻出するとなると何かを削るほかない訳で、麗蘭自身はここのところチョコレートやプリンなどの嗜好品を買うことはおろか、もともと豪華とは言えない食事すらいつもよりさらに質素に倹約しながら暮らしている。甘いものが好きな麗蘭にとってそれは決して辛くない訳でもなかったが、何より麗蘭自身が手作りというものに昔からとても憧れがあったのだ。
 幼い頃、周りの子達が母親手作りの洋服を着ていたり学校で使うバッグや袋を持っているのがすごく羨ましかった。大切な人から「自分だけの物」を作ってもらえるその子達の存在が、ただただ眩しく思えた。自分自身が誰かからそういう物をもらえないのはわかっていたけれど、せめていつか自分に大事な人が出来たらその人に何かを作って贈るという経験をしてみたいと、いつからかそんな風に思っていたのだ。だから、今どき手編みのマフラーなんて重くて流行らないらしいということを知識としては知っていたが、初めての大切な人である由紀夫にどうしても編んでみたかったのだ。
 もう少しで編み上がるマフラーは所々編み目が不揃いではあったが、それなりに値段のする毛糸を買っただけあって色は悪くなかった。仕事の行き帰り、これが少しでも由紀夫をあたためてくれたらいいな、由紀夫の身近にいてくれたらいいなと思いながら、そんな風に思うこと自体が恥ずかしくて麗蘭は小さく首を振った。
 やっぱり自分には恋愛経験値が無さ過ぎる、と改めて麗蘭は思った。きっと世の22歳はバレンタイン一つでこんなに悩んだりしないのだろう。実際のところ去年既に麗蘭は由紀夫にチョコレートを渡してはいたのだが、あれは当時由紀夫のことをまだ男性として意識して意識していなかったからできたことだった。
(あんな風に気軽に渡せたらなぁ……ううん、もう無理だよ……)
 そう思いながら、麗蘭は編みかけのマフラーをぎゅうと抱きしめた。今となってはどうしてあの時由紀夫に対して何とも思っていなかったのかがわからない。そのぐらい、今の麗蘭にとって由紀夫は大きく愛おしい存在になっていた。
 とりあえず、これを完成させるしかない。そう思うと麗蘭はもう一度編み棒を手に取り、また一目一目マフラーを編み進めていった。

 そうして気付けばバレンタイン当日。麗蘭はいつものように仕事先である食品工場で時を過ごしていた。いわゆるコンビニ等で売られている弁当の製造補助の仕事はアイドルになる前も別の場所でやっていたことがあったし、黙々と単純作業を繰り返すのは嫌いでは無い。それに何より学歴不問の所が多いので、麗蘭にとってはありがたかったのだ。
 休憩時間になると、麗蘭は休憩室の隅の方で一人黙々と持参した弁当を食べるのが常であった。ここのところはいつもよりさらに中身が質素で、今日も海苔を敷いたごはんの脇にきんぴらごぼう、卵焼きに、もやしとひき肉の炒め物を詰めただけという、全く「映え」そうにない弁当だった。
「良かったらこれ、一つどうぞ。甘いもの、平気?」
 気がつけば脇に立っていたのは、同じ工程部署で働いている主婦の女性だった。確か周りからは菊地さんと呼ばれていたように記憶している。麗蘭に差し出しているのは、ドライフルーツとナッツがふんだんに入った豪華なブラウニーだった。売り物のように綺麗でオシャレだったが、ラッピングの様子を見るにおそらく手作りだろう。どうやら彼女はこれを休憩中に顔見知りに配り歩いているらしく、手にしている小さな布の袋の中には同じような物がまだ入っている様子だった。
「ありがとうございます」
 そう言って麗蘭が受け取ると菊地はいいのよ、と言って笑った。
「娘がさ、好きな男の子にあげるんだ~とか言って手伝わされた余りだから。って言うか作ったの、結局ほとんど私みたいになっちゃったんだけどね」
 菊地は麗蘭の母よりそこそこ年上に思えたが、麗蘭の母は産んだのがずいぶん早かったし年齢よりだいぶ若く見えるタイプだから多分実際菊地と母とはそう年齢は変わらないのだろうなと麗蘭は思った。そうなると、娘さんは中学生ぐらいだろうか。母親と手作りお菓子作りなんて、麗蘭にとっては一番憧れるシチュエーションのうちの一つだった。その昔、なんの気まぐれか一回だけ一緒にクッキーを作ってくれたことがあったが、それ以外は料理も含めて母と一緒にキッチンに立った記憶は無い。家で母親に手伝ってもらいながらクラスの男の子にあげるバレンタインのお菓子作りをする、みたいな青春を送ってみたかったなぁと今でも麗蘭は思うことがある。そんなことを思っても仕方がないことはわかっているのだが、いくつになっても「こんな風に過ごしたかった」という過去への憧れを求める気持ちは減ることは無い。
 気がつけば、菊地が麗蘭の弁当をじっと見ていた。SNSに映えそうなブラウニーと比べてあまりにも地味な弁当を恥ずかしいなと思っていると
「ねぇその卵焼きすごく美味しそう。半分くれない?」
 と言って菊地が向かいの席に座ったので、麗蘭は弁当箱の蓋の裏に卵焼きを一つ載せた。自分の箸しか無いしどうしようかと思っていると菊地はそれをひょいと摘まみ
「わ、美味しい」
 と呟いた。
「これ、紫蘇だけじゃなくてなんか入ってる?」
「かつおぶしが少し、入ってます」
「おかかか、なるほどね。おいしいから今度やってみよ……前から思ってたんだけど、白田さんて若い割に落ち着いててなんか地に足付いてるって感じよねぇ。いつもお弁当持ってきてるし」
 そう言って菊地が感心したように頷いたので麗蘭は咄嗟に
「いえ、ただお金が無いだけです」
 と答えたし、実際それは本当だった。外で何かを買うような余裕も無かったし、外で買う食べ物の味はなんだかあまり馴染めなくて地味だけど自分がずっと作って来た味が一番落ち着くから、貧乏くさいとは思いつつも弁当を持参しているだけなのだ。
「若い子がバレンタインにこんなとこで働いてていいの? 彼氏がいてもいなくてもチョコレートあげられるチャンスの日じゃない…って、あ、今ってこういうこと言うと女同士でもハラスメントだって言われるんだっけ?」
「いえ、あの、別に大丈夫です」
 麗蘭がそう返すと、菊地は途端に目を輝かせて
「そうなの? じゃあもうちょっとつっこんで聞いてもいい?」
 と身を乗り出すと、声を顰めながら言った。
「あたし、いい歳して未だに人の恋バナ聞いたり自分の旦那さんとの惚気話するの大好きなの。だけど主婦同士だとどうしたってそういうのってドロドロしたり妬み嫉みみたいになりやすくて、なかなか話せなくて」
 そう言うといつも菊地が一緒にご飯食べてる集団をチラッと見る。子持ちの主婦同士らしい集団もこちらに気付いたようで、菊地はひらひらと手を振り返していた。
「白田さん彼氏いるの? スタイルいいし可愛いからいるんじゃないかなって思ってたんだけど」
「一応います、けど……あの、スタイルいいとかそんなことはないです」
「背も高いし胸も大きいし、やっぱり最近の子はうちらの頃とは発育が違うねっていつもみんなで話してたのよ。えーっ相手どんな人、社会人?まだ学生さん?」
 そんなことを言われていたのか…と思いつつ、麗蘭は恥ずかしくなって両腕で気持ち胸を隠した。それに恋人がいる状態でこういう話題を振られたのが初めてだったので、どう答えればいいのかもわからなかったので
「働いてる方、です」
 と、なんだかたどたどしい答え方になってしまった。しかし菊地はそんなの気にならないようで、さらに聞いてくる。
「へぇ。なら同い年か年上なの?」
「はい、年上です」
「そうなんだ。白田さん、落ち着いてる感じがするから年上の人から好かれそうだもんね」
 多分きっと褒めてくれたんだろうとは思ったが、大人しくて都合よく扱えそうな若い女として麗蘭を利用しようとしてきた男性達の顔を思い出し、麗蘭は複雑な気持ちになった。と同時に、由紀夫もだいぶ年上ではあったが初めて会った時からそういう嫌悪感は抱かなかったなと思い、不思議な気持ちにもなった。まぁ、あまりにも怖いという気持ちが強すぎてそんなことを思う暇も無かっただけかもしれないが。
「なら今日は夜にデートなの? いいなぁ」
 菊地は布の袋からブラウニーを取り出すと、小さく割って自分の口に入れながら言った。
「いえ、明日もお互い仕事なので今日は会う約束はしてません。それに多分向こうにとっては今さらバレンタインなんてそんな大したイベントじゃないかなと思いますし」
 麗蘭がそう答えると、菊地は驚いたように言った。
「へぇ、若い子でもバレンタインってそんな感じだったりするんだ。あ、それとも付き合ってもう長いの?」
「いえ、初めてのバレンタインですけど……」
 麗蘭がそう言ってプラスチックの湯飲み入った薄い茶に手を伸ばそうとすると、菊地はブラウニーを食べる手を止め少し真面目な顔で麗蘭に尋ねた。
「ねぇ、相手の人っていくつ?」
「え、確か33……だったと思いますけど」
「わ、白田さん多分まだ二十歳そこそこでしょ? 結構年上なのね。それじゃあきっと、白田さんから見たら相手はもうすっかり『大人の男性』に見えちゃってるかもしれないけどさ」
 そう言って菊地は呆れるように笑った。
「三十なんて、ううん、四十だって五十だって多分案外そんなに大人じゃないよ、白田さん。特に恋しはじめの時は、それこそ十代の時と変わんないぐらいドキドキしたり馬鹿みたいに喜んだり落ち込んだりするもんだと思う。それにさ、バレンタインなんて大したもんじゃないから今日は会わないでいいって、向こうがはっきり言ってきたの?」
「いえ、特にバレンタインの日どうするっていう話題にもならなかったですし、お仕事で疲れてるだろうなと思ってこちらからも何も聞かなかっただけで……明確にそう言われたわけじゃないですけれど」
 自分からバレンタインのことを口にするのは麗蘭にとってはハードルが高かった。一人だけ張り切って、由紀夫に会うことを断られでもしたらそれこそ恥ずかしくて耐えられないと思ったのだ。
「そっか……もしかしたらだけどさ、男の人の方が意外とロマンチストだったりもするから、案外向こうは寂しがってたりするかもしれないよ。うちの旦那なんてもう出会って十五年以上経つのに未だに今年も私からちゃんとチョコがもらえるのか、気にしてるみたいだし。彼氏さん、年下の可愛い彼女に余裕あるとこ見せたいから自分からは言えないだけで、初めてのバレンタインだし本当は当日会いたいって思ってるかも……なんて、その相手の人の事知らないから何ともいえないけどね。ふふ、おばさんのおせっかい。昔、年上の彼氏と似たようなつまんないすれ違いでちょっとケンカしちゃったことがあったから、思い出して余計なこと言っちゃった。ごめんなさいね」
 そう言うと、菊地は卵焼きごちそうさま、と言いながらいつもの集団に戻っていった。その後ろ姿を見つめながら、あの春日さんでもそんな風に思うことはあるんだろうか、と麗蘭は思った。麗蘭からすると、由紀夫は余裕のある大人の男の人に見えていた。いつも落ち着いていたし、運転だって上手だし、デートの時などにさりげなく自分を気遣ってくれる様子もスマートだ。それに何と言うか、割と手が早い。いや、別に世間的には普通なのかもしれないが、自分からキスをするとかそういうことは絶対、少なくとも当面の間はできそうにない麗蘭からすると、そういうことをさらっとできてしまう由紀夫はそれだけでひどく大人の男性のように思えた。
 由紀夫が自分のことを好いてくれてるんだろうなというのはなんとなくわかっていた。毎日のようにメッセージや電話をくれたり、一緒にいる時に優しい眼差しを向けてくれるのを見ていると、この人は本当に私のことを好いてくれているんだろうな、というのは流石に恋愛ごとに鈍い麗蘭にも伝わってきていた。そもそも、自由稼業を辞めてまで麗蘭と一緒になりたいと言ってくれたのだ。それはきっと、麗蘭には計り知れないぐらい彼にとっては大きな決意だったのではないかとは思っている。
 でも、なんでそんな風に由紀夫が自分のことを思ってくれるのかは、麗蘭にはわからなかった。自分にそんな魅力があるとはとても思えなかった。見た目も地味だし、菊地は褒めてくれたが背が高いのも胸が大きいのもコンプレックスだったし、何より明るいとは言えない性格が、世の中のキラキラした女の子達とは程遠い。由紀夫ならもっと素敵な人を選べただろうに、なんで自分のことを選んでくれたのか、未だに謎であった。
 とは言え、「自分なんて」と思うのはやめたい、というのはそれこそアイドルの時から、いやそれ以前からずっと思っていた。自分自身が「私なんて」と言い続けるのは、自分を好きだと言ってくれる人に失礼だと頭では思っていたらだ。とは言え長年染みついた考え方は簡単には切り替えてはいけなかったが、自分のためにも由紀夫のためにも、少しずつ変わっていけたらいいなとは思っていた。
 それに、自分が由紀夫に未だに緊張してしまうように、向こうも麗蘭にドキドキするのにそれでも勇気を出してデートに誘ったり電話をしてくれているんだとしたら。そんなことないだろうとは思うけど、万が一そうだとしたら。いつもこちらが誘ってもらってばかりなのは悪いし不公平だなと麗蘭は思った。普段向こうから歩み寄ってくれる分、バレンタインぐらい、女の子から踏み出しやすいこの日ぐらい、自分がもっと頑張っても良かったのかなと思った。
 何より麗蘭自身が由紀夫に今日、会いたいと思っていた。初めて由紀夫と迎えるバレンタインの当日、ちょっとの時間でもいいから会いたいなと、本当はすごく思っていたのだ。だけど勇気が出なくて言いだせなくて、ここまできてしまったのだ。
 でも、まだ14日は終わった訳では無い。マフラーはもう編めていたしラッピング用品だって買ってあって、あとはカードにメッセージを書くだけなのだ。
(それに、春日さんのお家は知ってるんだよなぁ)
 以前たまたま由紀夫の家に行く機会があって、中に上がったことはないが未だに場所は覚えていた。駅からそう遠くも無かったし方向音痴な方でも無いから、おそらくたどり着くことができるだろう。
(……どうしようかな)
 そう思いながら、心はもうほとんど固まりかけていた。スマホを取り出し乗換案内を調べようとしたところでもうすぐ休憩時間が終わることに気がつき、麗蘭は慌てて食べかけの弁当箱を閉じると席を立った。とりあえず、就業までは仕事に集中しよう。そう思いながらも、その胸はドキドキと波打ちはじめていた。

 仕事が終わるとすぐさま帰宅し、急いでマフラーをラッピングする。そしていつもより少しだけ丁寧に化粧をしたところまでは良かったのだが、問題はカードである。別に付けなくても良いかとは思ったのだが、由紀夫が家にいない場合や直接渡す勇気が出なかった場合、ポストかどこかに入れておく可能性もゼロではない、むしろ直接渡す可能性より高いとなると、事前に書いておくに越したことはないだろう。そんなこんなで、麗蘭が自宅を出られたのはもうすっかり夜になってからだった。
 電車を乗り継ぎ記憶を辿って由紀夫のアパートに辿りつけたはいいものの、いざとなると勇気が出なくて麗蘭はさっきからアパートの近くの道をぐるぐると周回していた。遠目から確認するに由紀夫の部屋と思しき場所の電気は付いてたし、おそらく時間的にももう帰宅しているだろうとは思う。だけれど、ピンポン押して由紀夫がでてきたところで、一体何と言えばいいと言うのだろう。「ハッピーバレンタイン!」?そもそもそんな風に言えるキャラなら、初めからこんな時間にこんな場所をウロウロしていない。
 それにこんな風に急に家に押し掛けるだなんて、よく考えたらちょっとストーカーみたいじゃないか?と今更ながらに麗蘭は思った。由紀夫は麗蘭が自分の家の場所を知っているのはわかっているし麗蘭は由紀夫の彼女ではある訳だが、付き合ってから正式に由紀夫の家に遊びに行ったことはなかったし、呼ばれてもいないのに遅い時間に尋ねていくなんてやっぱり……
 そう思いながらも麗蘭は、それは勇気が出ない言い訳でしかないとも頭のどこかで思っていた。付き合ってるなら別に、急に家に行ったりしたっておかしくないよ。漫画とかドラマでもよく見るしと自分を奮い立たせ、なんとかアパートの階段を昇りきった。
 由紀夫の部屋の扉を見つめ、脇にあるインターホンに手を伸ばそうとはするのだが、やっぱり勇気が出せなくて押せない。それでも、ここまで来たのに何もせずに帰るのも嫌だった。カードは書いてきたのだし、せめてドアノブにでもプレゼントをかけて帰ろうかな。それともとりあえずメッセージか電話だけでもしてみようかなと思い鞄からスマホを取り出しアプリをタップしようと人差し指を伸ばした時だった。急に由紀夫から電話がかかってきて、思わず咄嗟に麗蘭はそれを取ってしまったのだ。
「れい?」
 あまりにもすぐに電話を取ったせいか受話器の向こうの由紀夫も麗蘭と同じく驚いていたようだったが、今日初めて聞くその低い声に、それだけで胸が温かくなるのを麗蘭は感じていた。
「は、はい。ええと、春日さんこんばんは」
 いつものことながら、電話が苦手でいつもよりさらに不器用な返答しかできない自分が嫌になりながらも、麗蘭は必至で答えた。
「今、少し話しても大丈夫か」
「大丈夫……ええと、あの、はい、大丈夫です」
 由紀夫は、家のどこで電話をしているのだろう。こんなすぐ傍で電話をしていると知られてしまったら多分きっと気持ち悪いと思われてしまうだろう。
 そんな風に考えて少し間が開いてしまったからだろうか。
「少ししてからかけなおそうか」
 と由紀夫が言ってきたのでこのままで平気だと言おうとした時、一際冷たい風が吹いてきて、麗蘭は思わずくしゃみをした。薄いコートで長いことウロウロしていたからか、気がつけばすっかり体が冷えきってしまっている。
 くしゃみを聞かせてしまったの、恥ずかしいなと思っていると不意にすぐ脇のドアが開き、中から部屋の主が……由紀夫が姿を現した。驚いたようなその顔は風呂上がりなのか髪がいつもより柔らかくて、精悍なイメージが少し和らいでる。
 が、麗蘭の方は驚いたなんてものではなかった。心の準備がまるでできていなかったので何の言葉も出ず、その場に立ち尽くすことしかできない。
「れい」
 と言って由紀夫がその手を伸ばしてきたのに気付くと思わず後ずさり、咄嗟に顔を伏せた。
「こ、こんな時間に急に来てしまったりしてごめんなさい。でもあのこれ、どうしても今日渡したくなってしまって……あの、本当にごめんなさい、私、帰ります」
 せめてプレゼントだけは渡さなければと思いなんとか紙袋を差し出すと、慌てて階段に向かって走り出そうとした。しかし
「ちょ、れい、待ってくれ」
 と言ってその手を由紀夫に掴まれてしまった。やっぱり風呂上がりなのだろう、いつもよりその大きな手がやわらかくてあたたかくて、そこからどんどん自分の体温も上昇していくのが自分でもよくわかる。そのままどうしていいかわからなくて下を向いてじっとしてると、由紀夫が袋の中身を取り出すのがわかって麗蘭は居ても立っても居られなかった。直接手渡すにしても、恥ずかしいから自分が帰ったあとで開けてもらおうと思っていたのに。
「れい、これ……」
 しかしそう言って由紀夫が黙ってしまったので、麗蘭は恥ずかしさで顔に集まっていた血液が一瞬で足元に引いていくのがわかった。やっぱりあんなのじゃダメだったんだ、とんだうぬぼれもいい所だった。甘いものは好きじゃなさそうだったし実用的な物の方がいいかなと思ったのだけれど、それにしたってやっぱり大人の男の人には綺麗な既製品の方がよかったんだ。そもそもバレンタイン初心者の自分は無難に有名どころのチョコレートを買っておくべきだったのに、下手なマフラーだけを持って突然こんな時間に尋ねるなんて非常識もいいところだ。そう思って耐え切れなくなった麗蘭は
「……っごめんなさい、やっぱり今度会う時までに私、別の何かちゃんとしたものを」
 と必死でマフラーを取り返そうとした。恥ずかしくて、もう嫌われてしまうかもしれないと思って、じわじわと涙がこみ上げてくる。
 すると伸びてきた由紀夫の逞しい腕が軽々と麗蘭を抱き寄せ、そのままその細い身体を玄関の中に引き入れる。初めて入った由紀夫の家は普段の彼と同じ煙草の匂いがしたが目の前にある由紀夫からはやわらかいボディーソープの香りがして、なんだか不思議な感じがした。どうしたって緊張してしまい、身を強張らせていると由紀夫がさらに強く抱きしめてくる。
「これ以上の物なんて、ないだろ」
 そのいつも以上に掠れた声は、だが確かに麗蘭に耳に届いてきて。
「すごく……なんて言うかその、嬉しい。ありがとう、れい」
 そう言って抱きしめられながら、その言葉はゆっくりと麗蘭の体に伝わっていった。会いに来て、良かったんだろうか。あのプレゼントで、大丈夫だったんだろうか。そんな不安の数々が由紀夫の熱が伝わる部分から徐々に解けていき、麗蘭の心に伝わっていく。
 嬉しい。ありがとう、れい。その言葉をもう一度胸の中で繰り返す。由紀夫が確かにそう思ってくれたんだ、というのがようやく実感できてくると、不思議なくらい身体の中が温かくなってくるのがわかった。
「良かった……」
 思わずそう漏らしながら広い背中に手をまわす。自分からそんなことをするのは麗蘭にしたらすごく恥ずかしかったけれど、今日は少しだけ甘えてみたかった。だから少しして
「遅いのにありがとな。駅まで送るからちょっと待っててくれ」
 と言って由紀夫が身を離してしまったときは寂しかったけど、麗蘭にはそれ以上何も言えなかった。それに、外に行く格好に着替えた由紀夫があげたばかりのマフラーをさっそく身に着けるのを見て驚き、気持ちがそっちへと行ってしまったのだ。
「あのそれ、恥ずかしいので今日はしなくても……」
 と言って麗蘭がマフラーを外そうとすると
「これはもう俺の物だから俺がしたい時にするんだ」
 と言って由紀夫はイタズラっぽく笑って玄関の外に出て行ってしまったので、麗蘭も仕方なくそのまま外へ出た。
 もらってくれたとしても、「ああ、ありがとう」みたいな感じでクールに受け取るだけかと思っていたのに。まれに麗蘭の前でも身に着けてくれたらいいな、ぐらいに思っていたのに。こんなにダイレクトな反応が帰って来てしまってはどうしたらいいのか麗蘭にはわからなかった。
 だけれども、嬉しそうに笑った由紀夫が頭を撫でて手を繋いでくれたので麗蘭はますます黙ることしかできなくて、そのまま二人で駅までの道を静かに歩き続けた。今日の春日さん、髪形といい態度といい小さい男の子みたいで可愛いな、なんてちょっとだけ思いながら。

 幸せな時間と言うのはあっという間に過ぎてしまう物である。麗蘭はあと二駅分ぐらい一緒に歩きたいなと思ったけれど、もしそう言ったら今日の由紀夫なら叶えてくれかねないと思ったのでその気持ちはぐっと胸の中にしまっておいた。
 会えてしまった分お別れが余計に寂しいな、と思いながら由紀夫を見つめると
「急に来てしまってすみませんでした。でも、会えて嬉しかったです」
 と、恥ずかしいけれどもなるべく素直な気持ちを言葉にして伝える。だって今日はバレンタインデーなのだ。
「こっちこそ、明日も仕事なのにありがとな」
 そう言って手を握り直してくれた由紀夫の手の感触を一生懸命記憶してから手を離すと、寂しいけれども改札に向かった。
 ……やっぱり今日はもう一つだけ勇気を出してみようかな、と思い直して後ろを振り返ると、まだ由紀夫がこちらを見送るように立っていてくれるのを見つけて、春日さんのこういうところが好きだなぁ、と麗蘭は改めて思った。
「れい、どうした」
 戻ってきた麗蘭に驚いたように言う由紀夫に
「あの」
 と言いかけて、その顔を見るのがどうしても恥ずかしくなってしまいふいと目を逸らす。
「今日、寝る前におやすみなさいの電話をしてもいいですか?」
 恥ずかしさのあまり自分でも聞き取れないぐらい小さい声になってしまったので果たして聞こえただろうかと思っていると、麗蘭の口元に何やら柔らかい物が触れ、やがてそれが由紀夫の唇だということに気付いた。
「か、春日さん?ここ駅ですよ!?」
 と言って麗蘭がその身を押し返そうとすると由紀夫はその手をぎゅっと握りながら

「今度のデート、外じゃなくてうちに来ないか。も少しちゃんと、掃除しとくから」
 と言ってからゆっくりとその手を離した。ああ、やっぱりこういうことがさらりとできてしまうからずるいのだ。連続で起きる突然の出来事に麗蘭の感情処理速度は完全に追いつかなくなってしまったが、なんとか
「……考えて、おきます」
 とだけ言うと、よろけるように改札に向かった。
「電話、待ってる」
 由紀夫からかけられたその声に振り返りぎこちなく頷くと、躓かないように気をつけながらエスカレーターに乗る。まだ色々と理解が追い付かなかったが、きっと由紀夫は自分が見えなくなるまでこっちを見てくれているだろうと思って振り返ると、やっぱりそこにはこちらを心配そうに見つめる由紀夫がいてくれて、その姿にほっとしながらもドキドキしつつ、最後のお別れのバイバイをする。あれが、私の好きなひとで、あれが、私を好きなひとなんだ。
 ホームのベンチに座ると、ぐぅとお腹が鳴った。そう言えばお昼にお弁当を半分食べて以来、何も口にしていない。しかし、身体の訴えとはうらはらに、胸は既にいっぱいで今日は帰っても何も食べられそうになかった。
 こんなことなら、電話するなんて言えばいわなければ良かった、と思いながら麗蘭は目を瞑った。あんなことを言われたあとでは一体何を話せばいいのかわからない。
 とりあえず、今日はおやすみなさいだけ言ってなるべくすぐに電話を切ろう。でもまぁ、寝る前にまた春日さんの声が聞けるのは、嬉しいけれど。そう思うと、口元が自然と緩んでくるのがわかった。
 一人だと歩くのが早い由紀夫のことだ、きっともうすぐ家に着くだろう。あの感じだとすぐにカードを読むだろうな、と思うとますます恥ずかしくなる。でもまぁ喜んでくれるならいいか、と麗蘭は思った。私で春日さんを喜ばせられることがあるのなら、こんなに嬉しいことは無いと心からそう思えた。
 プァンという音と共にホームに電車が入って来たのに気付いて目を開けると、麗蘭は慌ててベンチから立ち上がった。その頬はひどく紅潮していたが、それは冬の寒さのせいだけではなかった。

イラスト:さおやんさん 文:のざき

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