春白 謹んで、新年の喜びを

結婚して初めての年末のお話(2021.1.1に公開した春白年賀状ネップリ企画の再録)です。
春白についてはこちらにまとまっています。

「はぁ……」
 乳白色の湯に浸かって目を閉じると身体の中からじんわりと疲れが抜かれていく気がして、由紀夫の口からは自然とため息がこぼれた。元々そんなに長く湯に浸かる方でも無かったが、寒い夜に身体が芯まで暖まるありがたさを知ってしまうとなかなか烏の行水とはいかなくなるのだ。
とは言え、麗蘭に言わせると
「ちっとも長くなんてないですよ。ちゃんと暖まった方が身体にはいいんですから、夏でもせめてそのぐらいは入ってほしいです」
 だそうだから、時間にしたら大したことは無いのだろうけど。
 大柄な由紀夫にとって安アパートの湯船は狭く、足を十分に延ばすことはできない。女性にしては背が高い彼女にとっても決して十分な大きさとは言えないはずだ。もう少し広いところに引っ越せたらなと由紀夫は常々思っていたが、麗蘭は
「別に二人で暮らすには十分ですし、その分貯金もできるからいいじゃないですか」
 と言ってさほど気にする様子もなかった。実際、家のどこにいても彼女をすぐ身近に感じていられる今の暮らしに由紀夫も特段不満を感じている訳ではない。しかし元々は戸建て暮らしであり、人一倍好きな女に楽をさせてやりたいと思っている由紀夫としては、せめてもう少し広くて綺麗な場所に彼女を住ませてやりたかった。
 とは言え彼女の言う通り、この家、この家賃、そして彼女の堅実さのおかげで少しずつではあるが蓄えをしていけているのも事実であり、この前は二人でようやく旅行にも行くことができた。それは新婚旅行と呼ぶにはあまりにもささやかではあったが、紅葉と温泉を楽しむ二泊三日の間彼女はずっと嬉しそうにしていて、由紀夫は何度目かわからない「一緒になれて良かったな」を噛みしめたのだ。
 彼女が用意してくれた入浴剤入りの風呂に入りながら、由紀夫はその時のことを昨日のことのように思い出すことができた。行きの車の中から、いや、行こうと話を持ち掛けた時から彼女が楽しそうにしていたこと、どのご当地グルメを食べて回ろうか地図とネットを見ながら悩んだこと、道の駅で地域限定の酒や土産を買ったこと、部屋食を食べながら「こんな贅沢していいんですかね」と彼女が給仕の人達に一々礼を述べていたこと。そして
「……失礼します」
 部屋付きの露天風呂に、彼女がはにかみながら入ってきたこと。
(……いかん)
 これ以上湯に浸かっていたらさらに色々思い出してしまうと思った由紀夫は、さばりと湯船から立ち上がると冷水のシャワーを浴びてから浴室を出た。既に出会って五年以上が経とうとしているのに麗蘭に対する感情は落ち着くどころかむしろ日に日に増していくばかりであり、自分の中にもまだこんなに艶めいた感情があったことに由紀夫は少なからず驚いていた。
「お先に」
 何食わぬ顔をして洗面所の扉を開けると、居間では炬燵に入った麗蘭が何やら難しい顔をしてペンを取っているところだった。しかし由紀夫の声に顔を上げた時には眉間の皺は緩み
「入浴剤、気持ち良かったですか? 今日は特に寒かったので温泉気分だけでも、と思って買ってみたんですけど」
 と言って伺うように少し首を傾げる。
「ああうん、そうだな」
 純粋に自分のためを思って入浴剤を買ってきてくれたのであろう彼女に何となく申し訳ない気持ちになって、由紀夫はキッチンの蛇口をひねると洗ってあったコップで水を飲んだ。
「あの、これ、こんな感じで大丈夫でしょうか。おかしな所がないか見てもらえませんか」
 そう言って彼女が呼ぶので、由紀夫も炬燵に入って彼女が書いていたものを手に取った。そこには旅行の時に撮った二人の写真と「結婚してはじめてのお正月を迎えました」という文字が印刷されており、その下には彼女の字でメッセージが綴られていた。
「これは?」
「年賀状です、由紀夫さんのご両親に出すための。どこか変だったり失礼だったりするところ、ありませんか?」
 それは年賀状としておかしな部分は何も無いように由紀夫には思えた。自分と彼女が写っている写真を誰かに、しかも親に見られるというのは何とも言えない気恥ずかしさのようなものはあったが、新婚夫婦が自身らの写真を載せた年賀状を作るというのは特段おかしなことではないだろう。
「由紀夫さん、お正月はご実家には行かないと仰っていたので……なら、年賀状はお出しした方がいいのかなと思って用意してみたんですけれど」
 そう言って麗蘭は少し不安そうに由紀夫を見つめた。
 入籍をするにあたり今年由紀夫は約二十年ぶりに実家に連絡を入れ、単独で、そして麗蘭を伴って実家を訪ねていた。父は由紀夫に対しては未だ渋い顔をしているが麗蘭にはつとめて普通に接してくれていたし、母は控えめで息子を大事にしてくれている麗蘭のことをとても気に入ったようで、LINEの交換もしてたまにやり取りをしているようだった。
 そんな母からは年始に麗蘭と一緒に家に顔を出すよう言われていたが、弟妹も集まるであろうその場に顔を出すことは由紀夫にはまだ躊躇われた。母は由紀夫から連絡が来たことを弟妹も喜んでいたとは言っていたが、彼らの内心はそれだけではないだろう。由紀夫が道を逸れ始めた頃、弟の修二は高二、妹の綾香はまだ小六ぐらいだったはずだ。由紀夫のせいで迷惑がかかったこともあるだろうし、急に行方をくらました兄を弟妹達はどう思っていただろうか。ましてや綾香にはもう幼い子ども達もいるという。自分のような存在と触れ合うことを、母としての綾香は望みはしないだろう。
「別におかしなところは無い、と言うか、いいと思う。これ、どうしたんだ。うちはプリンターなんて無いだろう」
「今はスマホでなんでもできちゃうんですよ。スマホで作って、コンビニで必要な分だけ印刷できるんです」
 そう言うと彼女は画像を編集したらしいアプリの画面を見せてくれた。プライベートでは自分の写真を撮ることの少ない彼女だが過去にはアイドルを経験していたこともあり、少なくとも由紀夫よりはずっとこの手のことに詳しかった。
「まぁでも別にわざわざ葉書なんて出さなくても、お袋とはLINEでやりとりしてるんだろ。別にそれで事足りる気はするが」
 由紀夫かそう言うと彼女は首を振りながら俯き、炬燵の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「駄目ですよ。だって私この前、お歳暮だって忘れてましたし……」
 それは、つい先日のことだった。休みの日に二人が家で昼食のうどんを食べていたところに、実家からの宅急便が届いたのだ。
「由紀夫さん、なんかすごく高いお肉みたいなんですけど……ごめんなさい、この時期はご実家に何か送らなきゃいけないって全然気付いてなくて……私、すぐにお返しを探しに行ってきます」
 二人では食べに行ったこともないA5ランク和牛のセットに慄きながら慌てて家を飛びだそうとする彼女をなんとか引き留め、由紀夫は煙草を買いに行くと言って外に出るとすぐに実家に電話をかけた。
「ああ、お袋……うん、うん。届いたよ、ありがとう。でもうちはああいうの大丈夫だから……ああ、俺達に食べてほしいのはわかるけどさ、俺らはそっちにはそんなに高いもん贈れないし……いや、気にしないでって言っても俺はいいけど麗蘭はそういうの気にするから……ああ、うん……うん……いや、そんなことは言ってないだろ、気持ちはありがたいと思ってるよ……いや、だから、まぁ……とにかく、麗蘭には『迷惑だった?』とかそういうことは聞かないでやってくれ、あぁ、またそのうちまた家には顔出すから。親父にも礼は言っといてくれな。それじゃ」
 ふぅ、とため息をつくと由紀夫は自販機で缶コーヒーを買い、薄曇りの空を見上げた。別に母にしたら普通のことをしているだけなのだということはわかっている。妹夫婦にはもっと頻繁に何かを買ってやっているのだろうし、久々に会えた息子とその嫁の暮らしが裕福ではないことを知ってせめて年末ぐらいは美味しいものをと思ってくれたというのも、よくわかる。それはある意味「普通」の感覚だ。
 だけれど、麗蘭にとってはそれはおそらく「普通」ではない体験なのだろう。未だに自分から詳細を語ろうとはしないが、今まで聞いた話から察するに彼女の家は親しい親戚もいた様子は無く、幼い頃の彼女はクリスマスも正月も寂しく過ごしていたようだった。そして働くようになってからは、人手が薄く特別手当がもらえることもある年末年始は常に仕事を入れていたと、初めて一緒に過ごした正月の時に話していた。そんな彼女の家には夏や年末にいつもよりちょっと高級な食べ物が届くこともなかっただろうし、それを家族で囲むような日々も無かったのだろう。今も日々仕事に忙しい彼女が「義理の家に歳暮を贈る」という考えが浮かばなかったとしても、それはある意味当たり前だし別に気にしなくて良いと由紀夫は思っていた。
 しかし彼女は違う。入籍、そして春日の家に挨拶にいくことを意識し始めてから彼女は少し不安定な時期があったが、その原因は由紀夫というよりも自らの生まれや育ちを気にして起こる心の揺らぎであった。
 アイドルを辞めてから定時制に通い無事に高校を卒業した彼女だったが、いわゆる一般的に高校生であったはずの年齢の頃には高校へは通っておらず、中卒のまま社会に出ていた時期が長かった。そんな彼女を育ててくれたのは、主には既に他界しているという母方祖母であり、若くして彼女を産んだという実母とは現在疎遠、父親に至っては存在すら明確に教えてもらったこともないと言う。そんな環境だったにも関わらず腐らずに生きてきた彼女のことを由紀夫は尊敬していたし、何も恥じることは無いと思っていた。
 しかしそれはある意味「普通の家」で育ってこれた由紀夫だから言える言葉であった。幼い頃から裕福とまでは言えないがそれなりの家で育ち、若干過剰とも思えた母の愛情をあたり前のように甘受し、正月には親戚で集まって新年を祝うような、そんな家庭で過ごしてきたにも関わらず若気の至りで道を踏み外していた時期のあった由紀夫からしたら、むしろ彼女の方がずっと立派だと感じているのは嘘偽りのないところだった。
 しかし麗蘭自身はそうは思えていなかった。彼女は時折由紀夫の幼い頃の話を聞きたがったが、それは単純に由紀夫のことを知りたいという他に「普通の家」がどんな風なのかを知りたいようでもあった。
「そういうのって、テレビや物語の中だけの話って訳じゃないんですね」
 由紀夫が話してみせる家族の何気ないやりとりについて、彼女はそうこぼしたこともある。そんな時の彼女はどこか羨ましいような、それでいて悲しいような怒りも込められているような、複雑な表情をしていた。
 初めて春日の家を訪れる時、彼女は見たこともないぐらい緊張していた。事前に由紀夫が一人で家を訪れて麗蘭のことを伝えてはいたし、麗蘭の家族と会食をしたりすることは難しいことも伝えていたが、麗蘭の顔が晴れることはなかった。
「大事な息子さんの伴侶が、こんなどこの馬の骨ともわからない人間で申し訳ないです」
 付き合っている時も折に触れ感じていたことだったが、彼女は自分ではどうすることもできなかったであろう運命について負い目を感じているらしかった。それは由紀夫との付き合いの中で少しずつ薄れた部分もあるようではあったが、生まれてから二十年以上染みついてきた感覚はそう簡単に抜けることはないだろう。それは由紀夫にもわかっていたしまだそれを十分に吐き出させることも必要なのだろうとはわかっていつつも、彼女が自身を傷つけるような言葉を口にするとつい由紀夫自身の気持ちも波立ってしまうことがあって。
「麗蘭」
 いつもは「れい」と呼ぶ由紀夫がフルネームで彼女を呼ぶときは何か大切なことがあるときだ。それは麗蘭にもわかっていたし、必要以上に自分を卑下することは由紀夫を傷つけることにもなるということもわかっていた。しかし何事もないように振る舞って見せるのはまだ今の麗蘭にとっては無理なことであり、そのことがますます彼女を悩ませていた。
「……ごめんなさい、こういうことが初めてで、どうしたらいいかわからなくて」
 そう言ったまま黙って由紀夫の胸に額をつけた麗蘭を、由紀夫もまた黙って抱きしめることしかできなかった。どうすることが一番彼女の助けになるのかわからない自分に対して情けなく、苛立ちもした。
 そうしてなんとか実家訪問は終えた二人だったが、麗蘭は今も「なるべく『普通の嫁』らしく振る舞いたい」という気持ちは人一倍強いのだろう。由紀夫と二人で写る写真を誰かに見せることは気恥ずかしいと思っているであろう彼女が、それをわざわざ葉書にしてまで実家に賀状を出したいと言っているのである。それを由紀夫が断固拒否し続ける理由も特に無かった。
「……そうだな、俺の方こそ気が回らなくて悪かった」
 そう声をかけると、彼女はほっとしたように胸を撫でおろした。しかし
「良かった。じゃあここの余白の部分に由紀夫さんも一言書いて下さいね」
 そう言って麗蘭がペンを渡してきたので由紀夫は思わず
「いや、別に俺からはいらないだろ。それよりなんだ、そっちのお義母さんには出さなくていいのか。まだ結婚したことも知らせて無いんだろ」
 と言ってしまってから彼女の表情がみるみる硬くなっていくのを見て完全に余計なことをことを言ってしまったことを悟ったが、後の祭りだった。
「うちは、いいんです。叔父にはそのうち報告しておこうと思ってますし」
 そういう麗蘭の声はいつもより少しだけ語気が強く、しかしその刃の先は彼女自身に向かっているようでなんだか痛々しかった。彼女は上京してから一度も帰省をしていないし、母からは初めの頃に何度か留守電に金の無心があって以降、何も連絡は無いという。由紀夫と同い年だという叔父は都内で働いており、稀にではあるが連絡をとることはあると言っていた。それが、今の彼女の血縁の全てだった。
「……お風呂、入ってきちゃいますね。明日仕事に行く時に投函できたらいいなと思ってるので、夜のうちに書いておいてもらえたら助かります」
 気を取り直したかのようにそう言うと、彼女は立ち上がって洗面所へと消えていった。炬燵の上に置かれた葉書の中では、溢れんばかりの黄金色をした銀杏の木の前に、いつもどおりの仏頂面をした由紀夫と少し恥ずかしそうな顔をした麗蘭が佇んでいる。新婚旅行とは思えない落ち着いた雰囲気の写真ではあったが、由紀夫が贈ったネックレスをつけてくれている彼女も、彼女が編んでくれたマフラーを巻いた由紀夫も、あの時確かに幸せだったし今も幸せであることに間違いはなかった。だけれども、生きていくということは幸せという一色だけが延々と続く訳ではない。長い苦労があったであろう分、彼女の行き先はなるべく幸せで埋めてやりたかった。しかし自分と一緒になったことで彼女に新たな苦しみとも呼べるものが生じているであろうということもまた、事実だった。
 塊のようで一枚一枚異なる黄蘗色をした銀杏の葉を眺めながら、由紀夫は考え込むようにペンを手に取った。風呂場からは、ざぁざぁとシャワーの音が聞こえてきていた。

イラスト:さおやんさん 文:のざき






ネップリで年賀状が印刷でき、そこに載っているQRコードに部屋番号を打ち込むとSSが読める、という企画でした。

の「春白年賀状欲しくないですか」
さ「ほしいです」
という会話の翌日にはさおやんさんからイラスト原案と言う名のほぼ完成形が送られてきたの、仕事が早すぎて笑ってしまいましたよね… お互いどれだけ春白が見たいんだよっていう…いや、見たいんですが…

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