春白 マジックポイント

付き合って少しした頃のお話です
春白についてはこちらにまとまっています。

 別に、こんなことは想定の範囲内じゃないか。そう思いながらも煙草をくゆらせる由紀夫の心は重かった。自由業と言う名の不自由業から足を洗って早数カ月、どうにか手と体を動かして日々を食いつなぐことはできているが真っ当な定職には未だありつくことができていない。
 今日は珍しく面接までこぎつけられた会社があったので手持ちの中で一番無難なスーツを着て出かけて行ったものの、自衛隊を辞めてからの不自然な空白期間はやはり社会との間に大きな壁を作ってしまっていた。
「ごめんね、春日さん。せっかく来てもらったのに」
 決して大きいとは言えない自社ビルの玄関まで見送ってくれた、初老の男性の申し訳なさそうな顔が浮かぶ。
「電話で話を聞いて、私としては頑張ってもらえたらいいなと思ったんだけれど……」
「いや、ここまで取り付けてもらえただけでもありがたかったです。手ぇ煩わしてすみません、ありがとうございました」
 男性にそう礼を言って別れはしたが、由紀夫の内心は穏やかではなかった。先ほどの面接での出来事が、今も頭の中に鮮やかに蘇ってくる。
「ふ~ん、おやっさんが面接だけでもっていうから時間作ったけどさ。お兄さん、ずいぶん厳ついね」
面接者である二代目社長という男は事前に男性から由紀夫の経歴を聞いていたのか初めからこちらのことを馬鹿にしたような面持ちで、正直部屋に入った瞬間から由紀夫は気に入らなかった。先代が立ち上げたという町工場を中小企業と名乗れる程度にまで拡大したというのは確かに大したものだとは思うが、嫌らしいその笑い顔は道路の端でつぶれた雨蛙にそっくりで、数カ月前までの由紀夫なら有無を言わさずガンの一つも飛ばしているところだった。
しかしせっかく得たチャンスだったし、同席していた初老男性がすまなそうな顔をしていたし。何より、今日も早朝から仕事に行っているであろう麗蘭の顔が頭をよぎった。
アイドルを辞めてすぐに麗蘭は契約社員として食品工場に働きに出ていた。これからのことはまた追々考えるとは言っていたが
「とりあえず生きていくにはお金がかかりますし。なんだかんだで私、工場で働くのは嫌いじゃないんだと思います」
かつて同じような工場で働いていたという麗蘭は、そう言って何でもないといった風に朝早くから仕事に励んでいるのだ。
本当なら少しゆっくり休ませてから次の生活に向かわせてやりたかったが今の由紀夫にはそんな甲斐性もない。それに彼女はまだ花も盛りの二十二歳でもっと遊んだり自分を装うことにも金を使いたい頃ではないかと思うのだが、そんな様子は微塵も見せず日々の生活をやりくりしてせっせと貯金に励む姿は健気でもあったが、由紀夫にはなんだか悲しくも感じられた。
「貧乏性の心配性がなんかもう染みついちゃってるんですよね、アイドルをやってみたところでそこはどうにも変わらなかったみたいで。つまらない性格だなって自分でも思うんですけど」
 そう言って彼女は苦笑したが、その歳でそんな風に思うようになってしまった彼女のこれまでの人生を考えると、由紀夫は何とも胸が苦しくなってしまった。
 だから、不躾で腹が立つ二代目の質問にもなるべく正直に、ここから頑張っていきたいのだと由紀夫なりになんとか気を静めて答え続けていたのだ……いたのだが。
「ふ~ん、新しい生活のために頑張りたいねぇ。所帯でも持ちたくなったの? まぁあんたみたいのと一緒になろうって女だ、あんたにお似合いの……」
「彼女は」
 下卑た笑みを浮かべた唇からそれ以上の言葉を聞くのはどうにも耐えられず、ついに由紀夫は言葉を遮ってしまった。
「彼女は俺なんかにはもったいないような、最高の女です。だからこそ、もう一度頑張ろうと思えたんです」
 熱い言葉とは裏腹に、由紀夫の目は冷めきっていた。その、未だカタギとは言い難い鋭い視線に二代目は引きつったように喉を鳴らしたが、やがて
「……そう、そいつはお幸せに」
 そう言うと、ふんと鼻を鳴らしながら逃げるように奥の扉から出ていってしまった。やってしまった、と思ったがもう遅かった。だが心のどこかですっきりしたのも事実だった。自分はともかく、彼女が侮辱されることだけは今の由紀夫には耐えられなかった。
(……とは言ったものの、また一から探すのか……)
 駅前に設けられた喫煙所で煙草を吸う由紀夫の顔には疲れが浮かんでいた。わかってはいたものの真っ当な社会へ復帰を阻む硬く厚い壁に、さすがの由紀夫の心も最近では凹むことが多くなっていた。
溜息と共に既に何本目かわからない煙をふかしていると、ちょうど由紀夫と同い年ぐらいのサラリーマンがやってきて静かに煙草に火をつけた。そう高くはなさそうなスーツだがワイシャツの襟は綺麗にノリがかかっており、胸元のネクタイの趣味も悪くなかった。
男はどこか落ち着かない様子を見せていたが、やがて胸のスマホが震えたのがわかると慌ててそれを取り出し通話を始めた。
「もしもし、お義母さん? はい、え、もう陣痛が始まってる? 明日の予定じゃなかった……そうですか、はい、とにかく今から病院に向かいます」
スマホを持った左手に光る白銀の番の、一大事なのだろう。慌てて煙草をもみ消そうとする男と、ついそちらを眺めてしまっていた由紀夫の目が不意にバチリと合ってしまった。
「出産ですか。おめでとうございます」
 なんとなく流れでそう由紀夫が声をかけると、男は嬉しさと興奮を隠しきれない様子で言葉を漏らした。
「初めての子なんです。産まれるまでに禁煙するって言いつつ今日までできなかったんですけど、今ので最後にします。良かったらこれ、どうぞ」
 そう言って男は中身の入った煙草の箱を由紀夫に渡すと、ロータリーに止まっていたタクシーに駆け込んで彼の最愛の元へと消え去っていった。
 本当なら、由紀夫にだってそんな現在があるはずだった。高校を出た頃は、今の歳の頃には愛する妻とニ、三人の子供に囲まれて明るく幸せな家庭を築いているだろうと夢描いていたはずなのに。
「なんで、こんなことになっちまったんだろうなぁ……」
 もらった煙草を握りしめながら、気がつけばそんな言葉が口から洩れていた。それは微かな煙と共に、町のざわめきの中へといつしか消えていった。

 夕暮れの街を、最寄り駅からアパートに向かってダラダラと歩く。気を付けないとつい柄の悪い歩き方になってしまい、周囲がそっと道をあけるのを見てその度に直しはするのだが、長年身に付いてしまった習性というのはそう簡単には抜けるものではなかった。
麗蘭とは未だにお互いのアパートで別々に暮らしている。以前のように互いの仕事場に行けば自然と会えるという訳でもなく会うには時間も金もかける必要があるため、お互いに余裕があるとは言い難い今の状況的には一緒に住んだ方がいいだろうと思うのだが、定職に就いてもいないのに一緒に住もうと切り出すのはなんとなく抵抗があって由紀夫はそれに踏み切れないでいた。
 明日は麗蘭の仕事が休みだということで、今日は久しぶりに麗蘭が由紀夫のアパートに来ることになっていた。夕飯を作ってくれると言っていたし合鍵は渡してあるので、おそらくもうアパートにいるのではなかろうか。疲れているであろう麗蘭に何かケーキでも買っていってやりたかったが
「いつも嬉しいですけど、こんなに毎回だと太っちゃいますし……良かったらその分、春日さんの煙草代にでも使って下さいね」
 むしろ痩せぎすな彼女の遠回しな遠慮と気遣いに、好きなだけ好きな物を食わせてやりたいと思いつつもあまり気を遣わせるのも悪いかと思い、コンビニでシュークリームを一つだけ買って帰る。アパートの窓を見上げると、カーテンの向こうにはほのかに明かりが灯っていた。
「お邪魔してます。おかえり……なさい?」
 インターホンを押すと、そう言って恥ずかしそうに微笑みながら麗蘭がドアを開けてくれた。別に自分でも鍵を持っているのだから黙って自分で開けて入ってもいいのだが、彼女のこの声と顔を味わいたくて数カ月前までは一度も使ったことのなかったボタンを彼女が家にいる時はついつい押してしまうのだ。
「ああ、ただいま」
 本当は色々ぶちまけたくなるような感情や衝動はありつつもそれだけ言うと、由紀夫はシュークリームを麗蘭に渡して流しで手を洗った。一つしかないコンロには、蓋のされた土鍋が火にかけられている。
「ありがとうございます。そしてすみません、思ってたよりも着くのが遅くなっちゃって。お鍋なんですぐ出来るので、座って待っていて下さいね」
 そう言って麗蘭は冷蔵庫にシュークリームを入れると、あらかじめ出しておいたらしい食材を手際よく切りそろえ始めた。
 狭いキッチンに大柄な二人が立っていたのでは邪魔になるだけである。由紀夫はジャケットも脱がぬままローテーブルの前に座ると、ふうと小さくため息を漏らした。
 テレビもつけずにぼーっとしていると、やがて小さく鼻歌が聞こえてくる。麗蘭は歌を歌うのが好きだ。かつて所属していたアイドルグループのライブの時は、碌に歌など聞いていなさそうなファンの前に対してでも彼女はいつも一生懸命歌を届けようとしていた。
トントンと食材を刻む音と彼女の丁度良いアルトの声が、じんわりと由紀夫の心を包んでいく。シンプルなシャツとスカートは決して華やかでも今時でもなかったがすらりとした体型の彼女にはそれが良く似合っていて、肩の上で揺れるさらりとした黒髪も含めて由紀夫は見ていて飽きることがなかった。
 今日の、最近滅多に着ることがなくなったスーツを着た自分を見て、多分彼女は何かを思っただろう。それでもこちらから何かを言わない限りは無理に踏みこんで来ることのない彼女の優しさがありがたかったし、その優しさが逆に辛くもあった。
「今日は白菜と鱈の鍋ですよ。角のお魚屋さんと仲良くなって、負けてもらえるようになってきたんです。春日さん、一人だと面倒だしあんまりお魚は食べないって言ってたので、二人の時はなるべく魚がいいかなと思って」
 背中越しにそう語る彼女がいじらしかった。彼女の存在が今の自分にとってどれだけ助けになっているかを上手く伝えられない自分自身が、もどかしかった。
「あ、良かったら先に飲んで待っていてください。冷蔵庫にグラス、冷やしてありますよ」
 麗蘭はそう言って由紀夫に声をかけたが、しばらくたっても何の反応も無かったので疲れて居眠りでもしているのかと思いふと後ろを振り返った。すると、ゆっくりと立ち上がった由紀夫がふらりとキッチンへとやってきて

「えっ、えっ」
 戸惑う麗蘭に何も言わないまま、その身体をぎゅうと抱きしめた。あまりに突然の行動に麗蘭は驚きはしたものの、家に帰って来た時の由紀夫の何とも言えない表情や久しぶりに見たスーツ姿からなんとなく状況を察し、そのまま何も言わずに抱きしめられていた。背中にまわされた手は大きく力強かったし、厚みのある体に抱きしめられているのは自分のはずだった。にもかかわらず、それはなんだか幼い少年が必死で自分に抱きついてきているようにも感じられて、麗蘭は迷った末にその広い背中にそっと手を伸ばしかけた、その時だった。
 ぶしゅぅぅと大きな音がして、二人の体が思わずびくりと震える。コンロの上では沸騰した鍋の湯が、蓋の隙間から音を立てて溢れはじめていた。由紀夫は何事もなかったかのように麗蘭から身を離すと素手で鍋の蓋を掴んで蒸気を逃がし、そのままふらりと手洗いの方へと消えていった。
「……ああ、お鍋、お鍋」
 はっと意識をとりもどした麗蘭は、吹きこぼれたコンロ周りを慌てて拭き取った。鍋から昆布を取り出し切りそろえた具材を順番に鍋の中へと入れてくと、今になってじわじわと自分の頬が赤くなってきているのがわかって思わずその手を自分の頬に添えた。抱きしめられたこともそれ以上のことも決して初めてではなかったが、麗蘭は未だに由紀夫に触れられるとそれだけで体が熱くなってしまうのだ。
 今日は私も一口ぐらいお酒をもらおうかなあ。そう思いながら、麗蘭は出汁の香る潤色の土鍋にそっと蓋をした。

イラスト:さおやんさん 文:のざき

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