「多くの人が『ひらブーがイベント開催のための唯一の手段だ』と思っているのではないか」と勝手に推測し、勝手にモヤモヤしている

毎月月初になると「赤ブーさんにこんなイベントやってほしいな~」とアピールできるシステムである、「#ひらいて赤ブー」でTLが賑わう。好きな作品をたくさん見れる上、イベント開催のチャンスが増えるというありがたいシステムである。
赤ブーは新刊カードが特定の枚数以上集まればオンリー開催、という印刷所にも利益を還元しつつ本作りを活性化する仕組みを作ってくれたりもした。これまたありがたい話である。

それはそれとして、なんとなく「イベントとは、赤ブーに『開いてもらう』ものである」みたいな空気を(勝手に)感じ、そのことには違和感を覚えるし、私の勝手な思い込みではなく実際女性向けと呼ばれるジャンルで本を出す・手に取る人のほとんどがそう思ってしまっているんだとしたら、それは嫌だなぁと思った。

その「嫌さ」の正体って何なのだろう、と考えてみたのだけれど、私が同人誌のことを「開拓していくもの」だと思っているところから来るのかもしれない。
世の中には素敵な本はたくさんある。でも、私には書きたい本がある。「私が思いついた本」と完全に一致した本がまだこの世にないから、それなら私が出す。そういう「無いなら私が作ります」の精神が「同人誌だ」と思っているから、「人々が、イベント開催の決定権を他者のみに委ねてしまう状況」が「自分が欲しいものを自ら勝ち取りにいくのではなく、他人から与えてもらうのを待っている」ように見えてしまって、悲しくなったりそれでいいのかよ、みたいに勝手に憤ったりしているのかなぁ、なんて思った。
もちろん「どんな動機で本を出すか」なんて人それぞれだし、「こういう気持ちを持っていない人は本を出す資格ありません!」なんて言うのはおかしいし、私の気持ちは「本を出す人はどこか開拓者であってほしい」という私の理想の投影から来ているんだろうなぁ、とは思っている。

「こういうイベントがあったらいいな」と思ったらリアルやオンラインで開催する等、手段は色々ある訳で。だけどそっちを選ばない理由ってなんだろうな、と思った。
一つは単純に「その選択肢が発想として浮かんでいない」のもあるだろう。生まれてこの方企業が主催したイベントしか行ったことがない・他の情報を聞いたことがない人にしたら「イベント=企業がやるもの」であり、個人が主催する、という発想自体が無いのだろうなと思った。

「存在自体は知っているけど、それを選択しない」のは、極端に言えば「それを選択する(しなければいけない)だけの理由や覚悟が無い」なのかなぁ、と思った。イベントの主催に限らず、物事って「できる」か「できないか」じゃなくて、「今の自分でやれる限りやってみる」か「やらない」の2択だったりするのかなぁと思うので…

まぁでも大抵のことって「誰かが用意してくれるなら便乗するけど、自分でやり遂げるほどの気力は無い」ですよね。え?そんなことない? 私はほとんどのことについて「便乗させてくださ~い、ありがとうございま~す」でやっている気がします。
そのくせ他人には勝手にモヤモヤしてるんですから、ほんとになんて自分勝手なんだろうなぁ、と我ながら思います。やれやれですねぇ…。

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大嫌いな人間の夢を見た

昼寝をしていたら大嫌いな人間の夢を見た。

私は「苦手な人」や「得意で無い人」はそれなりにいるが、明確に「嫌いな人」というのはほとんど思い浮かばない。瞬間瞬間では誰かのことを「好きじゃないな」と思うけれど、そういう人のために自分の時間や脳のリソースを使うのが嫌で、多分無意識のうちに考えないようにしているのだと思う。
そんな私が「明確に、嫌いだと思い続けざるを得ない」ぐらい、私はその人間のことが嫌いなんだろう。最後に直接接したのはおそらく10年程前だと思うが、未だに新鮮な気持ちで苦い顔をしながら舌打ちができるぐらいには嫌いだ。

多分、初対面ぐらいの時から嫌いだった。
二言三言話しただけで、「ああ、この人は『自分にとって利益のある人とない人』で明確に区別する人で、利益がないと判断した人間の人権は尊重しないタイプの人間だ」ということがわかったからだ。
ただ、あまり話したことのない段階でその人への(というかどんな人間に対しても)評価を終了するのは良くないことだと思ったし、この人も良い部分もあるだろうと思って、接触する機会の度にそれを探そうとした。
でも、接触する度に自分や「その人が『利益が無いと認めた人達』」への態度を目の当たりにする度に、心がすり減っていくのを感じた。
なるべく距離が取れれば良かったのだが、業務上どうしても密に関わらなければならない時期があり、最終的に私は原因不明の体調不良を起こし救急車に乗った(日本の救急システムってすごいですね。あまりにもすぐに来たのでパンダのスウェットのまま運ばれて帰るとき恥ずかしかった~)。

しかたないとは思いつつも、私は「私のことについて、誰かに『昔の情報のまま、それが今の私であるかのように語られる』」ことが好きではない。それが「常温の水が好きじゃない(今の私は好き)」程度のことだったらいいけど、価値観的な物に関してだと「いや、今の私はそういう考え方はしないんだが」とムキになってしまうところがある。
とは言え、「私と知り合った全ての人」に「最新の私はこうです」と言ってまわることもできないし、そもそも私に興味も無い人も多いし、それが現実に無理であることはわかっている。
だからせめて自分は、自分以外の人間に対して「可能な範囲で最新の情報を取り入れて更新したい」と思うし、他人について誰かに話すときは「これはあくまで私がその人と直接触れあった時点での印象だけど」みたいな前置きをすることもある(から面倒くさい人間だと思われていることもあるだろう)。
なので、その「大嫌いな人間」のことも、「もしまた出会うことがあれば、一旦最新のその人の様子を取り入れてから自分の感情や情報を更新しないとなぁ」とは思っていた。嫌いな人間に対しても、私はそこは大事にしたいというか、そうしないと自分が嫌なのだ。
(ちなみに、嫌いな人間に対して「また出会ったとしたら、好きになれたらいいな」と思う気持ちを私は一定の割合で持っている、ということを私は自覚している。それは一見なんだか「いい人」みたいに思われなくもない気がするけど私の場合全然そういうのではなく、「また出会った時に他人が自分の好きなタイプの人間に『矯正』されていたらいいなぁ」という気持ちのような気がする。自分勝手!!!)

その人間が夢に出てきたとき、私はそれが「夢」だとわかった。
そして「この10年で、私はその人間をどう『解釈』したんだろう」と思った。多分、「今現在の私の解釈によるその人間」が夢に再現されると思ったからだ。
すると相手は、10年前に私が嫌いだった時のままのその人間の姿で、夢の中で振る舞った。
その夢を見ている瞬間は、「ああ、私の中でその人間の解釈が更新されていないんだなぁ」と思った。それはある意味進歩が無いようにも思われた。
でも今思うと、「私の中で勝手に『好意的な解釈』や『矯正』を相手に押しつけなかった」とも言えるかなぁ、と思った。解釈の自由。

それにしても今でも新鮮に嫌いだな~、あの人。距離が取れる関係になって本当に良かった~!!!!!!!

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